第33話 種明かし
桜庭は嫌らしいくらいゆっくりと距離を詰めてきた。それだけ反撃に出る余裕が生じるはずだが、動けなかった。緩慢な動作は沖田の精神力を削ぐには十分すぎるほどの効果を発揮した。
「正直、あの日以来、生きた心地がしなかったよ。逃げていったのがうちの生徒であることは制服から明白だったが、誰かまでは見逃してしまったからね」
喋りながらも、桜庭はじりじりと近づいてくる。二人の距離の長さが、そのまま沖田の生命の残りになっているような錯覚を覚える。
「だからさ、関口がハンジローの話を持ってきた時にはピンときたよ。あの時の男子生徒が彼女に頼んでいるんだってね。暗雲から日が射した気分だったね。見つけられないと絶望していた目撃者の方から接触してきたんだから。しかも、理由は分からないが警察にも通報しないでさ」
桜庭の口がますます歪んでいった。まるで獲物を前にした狼だ。
「純粋な好奇心で訊きたいんだが、なんで警察に通報しなかったんだ? 正体が分からなくてもウタちゃんと呼ばれてたことや拾ったハンジローを使えば、やりようはあっただろうに。自分たちで僕に迫って、なにがしたかった?」
「……知りたいか?」
「まさか復讐じゃないよな」
沖田はカタツムリのようにゆっくりと動かしていた手を、一気にポケットに突っ込んだ。瞬きをする間の動作でスマートフォンを取り出す。
警察にっ!
しかし、タッチスクリーンを押す前に、ウタちゃんが振ったナイフが手の甲を斬りつけた。
「うあっ!?」
鋭く走る痛みに、スマートフォンを手放してしまった。土の上に音もなく落ちたスマートフォンを、桜庭が蹴り跳ばした。沖田のスマートフォンは、土塊ごと放射線を描いて離れてしまった。
「ああっ!」
「駄目駄目。教師が聖職者なんて呼ばれなくなって久しいけど、それでも生徒の動きはよく見ているもんだよ」
神経が剥き出しになってしまったように全身が痺れた。汗が吹き出し、重錘を課せられたみたく動きが鈍くなる。なにより、荒くなって乱れた呼吸が苦しい。
不意討ちを食らって、固めたはずの覚悟は見事なまでに霧散した。
「手を焼かせる生徒ほど可愛いっていうけど、あれは嘘だよ。こっちがどれだけ苦労しているかも知らずに好き勝手言って。中には教師を困らせて喜ぶ質の悪い者までいる。相手は子供なんだからなんて冗談じゃない。こっちは生活のため、金を稼ぐために働いているに過ぎないんだよ」
「柳井も……」
「あの子は最悪だった」
切り捨てるような一言が、桜庭自身の発言を如実に裏打ちしていた。この男は生徒の将来や夢など歯牙にも掛けていない。
「なにが切っ掛けだったのかな。無理やり出席させられた忘年会のくだらない余興に付き合わされたのが最初だった気がする」
桜庭は再び喋り始めた。沖田に聞かせるというよりは、映画で流れるナレーションみたいに、万人に解説する語り口だった。
「僕はね、きみたち生徒から過度なストレスを与えられていた。それを少しでも発散したくて女装してたんだ。最初は馬鹿らしいと思っていたのに、その時の不思議な悦楽が忘れられなくてね。今はインターネットで買い物するなんて普通だから、女性が身に付ける物でも簡単に入手できたよ」
桜庭の笑みがますます歪んでいく。まるで、手品師が絶対に喋ってはいけないトリックを種明かししているような、タブーな快感に酔い痴れている表情だ。桜庭が魔術師で、沖田が観客だ。
桜庭の告白に、沖田は己の推理力の足りなさを認めざるを得なかった。髪の毛の件で、羽衣石にウィッグでどうとでもなると教えられたが、まさに正解を言い当てていたのだ。ヒントは得ていたのに、衣装までもが女に見せるための擬態だったとまでは想像が届かなかった。悔やんでも悔やみきれない。痛恨の不覚だ。
「現実逃避なのかな。それとも変身願望の現れか。教師なんてお堅い仕事をしている僕が、女の格好をするだけで心が軽やかになる。あらゆる束縛から解放される気がするんだ」
「………………」
「まだガキのきみたちには、大人が抱えているプレッシャーなんて分からないか。なんにしても、僕だけの秘密さ。けど、彼女に見られちゃってね。それからは悲惨だったよ」
「……なにを」
「ん?」
「なにを要求されたんだ」
「……最初は僕の部屋で女装をさせられた。ファッションショーのモデルのように、何回も着替えさせられた」
「ファッションショー? モデル?」
「衣装を替える度に、あいつはニヤニヤと下品な目で僕を見てスマホで撮影した。精神がどんどん浸食されていくようで、ひどく惨めな気分だったよ」
「………………」
「そのうち、女装したまま外出させられるまで要求が過激になった。逆らえない僕は、完全に彼女の玩具に成り下がった」
桜庭の不気味な笑みが醜く歪んでいく。全身から青白い炎が見えるくらい、回想で怒り狂っているのが分かった。
「召使いのように従った。なにしろ、公表されたら破滅だからね。従僕となって二人だけの秘密にしてくれと懇願したよ。でも、彼女はのらりくらりとかわし続けた。僕を嬲ること自体を楽しんでいたんだよっ」
「それはっ」
違うと思った。関根が語っていたエピソードが脳裏を駆け抜ける。
柳井は好いた相手に積極的に猛進する。但し、表現方法が下手すぎるが故、理解されずに疎ましく思われる性癖の持ち主だと。
柳井は桜庭を好いていたのだ。教師と生徒の垣根を越えた感情で。最初はからかい程度の意地悪だったのだろう。なんとか自分に気を引きたい必死で幼稚なアプローチだ。
背徳を伴った愉悦は中毒性がある。はっきりとした段差がある階段ではなく、緩やかな坂道だ。もう少し、あとちょっとと酔い痴れているうちに、自身でも歯止めが利かなくなる。柳井は中学生の時に犯した過ちを、愚かにも繰り返したのだ。
彼女からすれば、この上ない快感だっただろう。なにしろ、好きな男が自分の思いのままに動いてくれるのだ。戯れといじめの境界線を見失った柳井の接触は、桜庭から殺意を引き出すのに十分すぎた。火薬庫の上で花火をするくらい馬鹿な遊戯だった。
「だからって、殺すなんて……」
「世の中にはどれだけ道徳を説いても分からない阿呆がいる。いわゆる救いようがないってやつだ。そんなのに関わって人生損するなんて、そんな理不尽なことがあってたまるか。世の中を回すにはエッジの立った歯車でなくてはならない。擦りきれて歪になる前に、対処するのは正当な行為だ」
「あんたは、とっくに歪んでいるっ」
沖田は桜庭に突進した。恐怖が薄れたわけではないが、羽衣石を助けなければならない必死さが彼を突き動かした。
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