第32話 ウタちゃん

 もう肌寒い日が続く中、公園内はさらに冷え込んでいた。森林公園なので、日中でも木々が熱を遮っているからだ。照明灯により伸びた影は不安を誘うほど深く、日中は子供たちがはしゃいでいる広場も、今はうら寂しかった。

 ウタちゃんはどのような出方をするのか。追い詰められているのは承知のはずだ。許しを乞うて自主するのか。それとも襲い掛かってくるのか。いずれにしても、一瞬の油断もできない。羽衣石ももちろんだが、桜庭がいてくれるのは心強かった。彼は体つきこそ小柄で細いが、猫のようなしなやかな筋肉の持ち主だ。とっさの事態にも反応できると期待しても良い。

 約束のメタセコイアの森に着いた。すっかり色づいて見事な紅葉が映えているはずだが、それは日光があってこそだ。

 今は人っ子一人いない。各々の家から温かな光が漏れている町中で、ここだけはぽっかりと穴が空いたように静かだった。


「ここで待ち合わせしてたんですが……」


 桜庭の呟きを羽衣石が確認した。


「間違いない?」

「ええ。そのはずですよ」


 ウタちゃんの姿はなかった。一瞬、約束を反古にして逃走したかとも疑った。そうであれば、沖田が殺害される未来は回避できる。それならば良い。危ない橋を渡るより拍子抜けするくらい静かに決着が着くなら、それに越したことはない。

 期待する一方、どうしても拭えない怯えが心臓を突く。運命は収束しつつも過程はどう転がるか分からない。今日を生き延びても明日はどうだ? 死が先延ばしになるだけではないのか。緊張が濃密になるにつれ、足が竦みそうになる。


「……ところで、関口はどうした? 彼女も一緒に来るんじゃなかったのか?」

「ああ、彼女なら……」


 沖田は羽衣石が言ったことをそのまま伝えようとしたが、彼女の眼差しに射されて喉で止めた。

 羽衣石の目からは真剣なメッセージが込められており、桜庭には事実を明かすなと訴えている。出会いから今日まで危機を乗り切ろうと必死に行動を共にしてきた二人だからこそ通ずる無言の共通認識で、一言も発せずとも沖田には確信が持てた。


「……今夜は来ません。桜庭先生が一緒なら、心配ないだろうって」

「そうか。彼女にもウタちゃんを紹介したかったんだが……。まあ、子供の一人や二人どうとでもなるか」

「え?」


 なんの予告もなく、軽やかなメロディが森の中に響いた。思わず沖田の全身が跳ねた。G線上のアリアだ。ひどく場違いな美しい旋律は、桜庭が着信に設定しているメロディだった。


「すまない」


 桜庭がくるりと背を向けた。ポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てる。

 沖田はウタちゃんからだと思い、聞き耳を立てた。


「ああ、その件は明日に回しましたので……」


 予想は外れた。内容から察するに、仕事の打ち合わせのようだ。硬直していた気持ちが弛緩する。だがそれは隙間のないリラックスであり、油断は決してしない。

 周囲に気を配り、改めてウタちゃんの登場を待った。


「くっ!?」


 羽衣石からくぐもった声が漏れた。驚いて振り向くと、背を向けていたはずの桜庭が羽衣石の背後に立っており、不自然なほど体を密着させていた。

 最初はなにが起きたのか分からなかった。体をくっつけ過ぎていると軽い嫉妬心が過り、すぐ後に戦慄が走った。肌を刺激していた冷気の不快さなど一瞬で意識の外に追いやるほど、目の前で起きている光景に衝撃を受けた。

 苦悶の表情を浮かべる羽衣石と能面のように感情のない桜庭。とてつもなくヤバい事態になっているのだと、理性ではなく感覚が訴え掛けた。


「愛莉さんっ!?」


 沖田が駆け寄ろうと身を屈めたと同時に、桜庭の腕が弧を描いた。月光を反射する妖しげな閃きが沖田の喉仏すれすれをかすった。


「っ!?」


 微かだが鋭い痛みを感じた。桜庭の手にはナイフが握られている。


「……え?」


 ナイフはそれほど大きくはない。それでも刃は凶悪な光を放ち、威圧的な存在感を主張していた。

 驚いて喉に手を当てると、滑りのある熱い血が流れ出ていた。


「……惜しい」

「桜庭……先生……」


 羽衣石が崩れ落ちた。背中から血が溢れ出て衣服が朱に染まっていく。状況は確実に動いているのに、思考が凍って上手く働いてくれない。理解が追い付かなかった。

 なぜ、桜庭が刃物を持っているのか。

 なぜ、いきなり斬りつけてきたのか。

 羽衣石はどうなっているのか。

 いったい、なにがどうなっているのだ。


「あと一歩踏み込んでくれたら、喉を掻き斬ってやれたのに」


 血に染まったナイフにも劣らない禍々しさが、桜庭本人から滲み出ていた。


「なぜ……?」


 混乱している沖田は、やっと声を絞り出した。


「きみたちが悪いんだよ。ウタちゃんの正体を探ろうなんて」

「先生は、ウタちゃんがなにをしたか知ってるんですか?」


 沖田は質問を投げ掛けながらも、羽衣石の様子を窺った。早く病院に連れていかなければならないのは、確認しなくても一目瞭然だった。刺された箇所がまずい。それに容赦なく染みを拡げる出血。命に関わる深手だ。


「ああ。知ってるよ。よおく知ってる」

「だったら、彼女を庇うべきではないって分かるでしょう。彼女は柳井明日菜を……」

「仕方なかったんだよ。だって、あの子は僕を脅迫してたからね」

「???」


 桜庭の様子がおかしかった。羽衣石を刺した時点で既におかしかったのだが、今の彼には心臓を鷲掴みにされるような異様な怖さがあった。

 胃が冷たく窄まり、鈍い痛みすら感じる。不気味さが浸透していく中、桜庭の異常さは濃度を増していった。


「あの娘は僕に嫉妬してた。ダンスが上手くて人気がある僕を許せなかったんだね」

「……なにを言ってるんです」

「もともと生意気なメスガキだったけど、僕の秘密を知ってから手が付けられなくなっていった。どんどん増長していった。僕をいたぶることで、必死にプライドを保っていた。嫌だっていうのに、人前に連れ出したり、派手な服を着させて注目を集めさせたり……。分かるか? 密やかにするから愉しかったのに、人前に出るのはすごい恥ずかしかったよ」

「だから、なにを言っているのか分からない。先生、あなたはいったい……」


 桜庭は訳の分からない解説を始め、羽衣石は出血が止まらず苦痛に呻いている。

 沖田は心の底から怖かった。呼吸が乱れているのを自覚する。吐く息までも冷気を纏っているかのように冷えている。

 呼吸が苦しくなるほどに鼓動が激しく脈打ったが、ただ立ち尽くしていたわけではない。スマートフォンをすぐにでも取り出せるように、徐々に体勢を変えていた。


「だから殺した」


 一瞬、本当に心臓が止まったのではないかと錯覚するほどの衝撃だった。まるで「失敗しちゃった」と愛想笑いでごまかすのと同じ口調で、殺したと言ったのだ。


「殺した……? 殺したって……」

「やだなぁ。沖田くん。僕の名前を知らないの?」


 名前……。名前なら知ってる。桜庭だ。それより、殺したとはどういう意味だ? 柳井を殺したのはウタちゃんだ。この目で見ていたのだから間違いない。ウタちゃんはいつになったら現れるのだ?

 もう少しだ。もう少し手を伸ばせば、スマートフォンを取り出せる。


「僕の名前は桜庭旺太郎だよ」


 桜庭は初めて会う相手に自己紹介をするみたいに名乗った。さっき羽衣石に名乗った時と同じ調子だ。この場に相応しくない、朗らかさと爽やかさだ。その自然体がよけいに恐ろしく感じた。


「……知ってますよ」

「いいや、きみは知らない。デキの悪い生徒には何回も説明しなくちゃならない。僕はそれが嫌いでね。桜庭旺太郎と言ってるんだよ」


 だから知っている。今はおまえの名前なんかどうでも良いんだ。早く警察、いや救急車を呼ばなくては、愛莉さんが死んでしまう。ウタちゃんと対決するつもりだったのに、なんでこんなことになっている?

 ……ウタちゃんは……。

 ?……。ウタちゃん?

 桜庭旺太郎。

 桜庭おうたろう。

 おうたろう……。

 おうた……。

 っ!?


「お……お……おまえ」

「やっと分かった? 僕がウタちゃんだよ」


 桜庭の、いや……ウタちゃんの口許が歪に吊り上がった。

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