第30話 大禍時

 時計の針が進むのももどかしく、沖田は約束の時を待った。普段なら帰宅後は自分の部屋に閉じ籠もるのに、ずっとリビングにいるのを母は訝しんだが、今日はできるだけ両親と時間を共有したかった。夕食時には父も帰宅している。自分をこの世に生んでくれた二人の顔をまぶたに焼き付けようと必死な気持ちだった。


「今晩はカレーが食べたいな」

「あんたがリクエストするなんて珍しいわね」


 最後の晩餐にするつもりなど毛頭なかったが、母が作ったカレーが無性に食べたかった。


「急に言われても、材料ないわよ」

「買ってくるよ」

「そう? じゃあ、ついでに洗剤も買ってきてくれる?」


 母から金を受け取り、近所のスーパーマーケットに出掛けた。徒歩でも七分ほどの近所であるが、沖田は敢えてゆっくりとした歩調で進んだ。見納めにする気はないのに、この店は長年頑張っているなとか、ここには以前なにが建っていたんだったかなど、風景と回想を練り合わせた。

 羽衣石からは鋭気を養えと言われたが、心がじっとしてくれることはなかった。どれだけ押しても浮かんでくる木片のように落ち着かなく、気持ちに連動して一時も動かずにいられない。護身用の武器を用意した方が良いのではないのか。羽衣石ともっと綿密な計画を立てられないのか。どれだけ考えても、これで大丈夫だと安心できない。無事に終わらせられる確信が得られない。まとまらない思考をこねくり回し、母から頼まれた洗剤を忘れる有り様だった。



 夕食のカレーは旨かった。いつも以上に丁寧に咀嚼して味わってから飲み込んだ。おかわりをした。何度も「旨い」と言ったので、母は上機嫌になった。三杯目もいきたかったが、満腹になって動きが鈍くなるのはまずい。ぐっと堪えて二杯で終わらせた。

 夕食後もリビングに居座りテレビを観たが、一向に頭に入らない。人気絶頂のお笑いコンビが出演している番組なのに、教材用の映像を観ているような時間が流れた。視線は何度もテレビから離れて、チラチラと両親を追う。

 死が迫っているかもしれないのに、早く時が通過してほしい。そんな奇妙な感覚に囚われながら、ひたすらに待った。

 日が暮れてくるに従って、我慢が限界に達した。やはり羽衣石と詳細を詰めた方が良い。会う時間を早めたい旨を伝えるため、自室に戻って通話アプリで連絡した。


『なに? またあんたなの?』


 繋がったのは、またもやもう一人の羽衣石愛莉だった。こんな時にまでと、冷静でいられなくなる。何度も行動を共にしている方の羽衣石は軽く受け流していたが、放っておくと運命を左右する大きなトラブルになりかねない予感がした。


「愛莉、さん?」

『気安く呼ばないで。あんまりしつこいと警察に通報するよ』


 三回目ともなると余裕が出てきたようだが、警戒心は相変わらずだ。当然だ。知らない相手から何度も電話が架かってきて、その都度間違いで済まそうとしているのだ。怪しいと思わない方がどうかしている。


「ごめん。本当になんできみに繋がっちゃうのか分からないんだ」


 前回と似たような言い訳をしながら、顔も知らぬ羽衣石が放った通報という言葉が、頭に引っ掛かった。この女の子に電話が繋がるようになったのは、羽衣石と出会ってからだ。やはり、一連の流れに絡んでくる重要人物なのではないだろうか。だとしたら、繋がりを断つのは賢明ではない。羽衣石は警察に頼っても無駄だと突っぱねたが、どんなに細い糸でも掴んでおくべきだ。


「……ニュースは見るか?」

『?』

「もし、明日のニュースで沖田昌宏って高校生が殺されてたニュースを見たら……」

『なんの話? ごまかそうっての?』

「犯人は西原高校のOBで」

『まだ約束の時間まであるよ。どうかした?』


 いきなり話が噛み合わなくなった。怪訝に思って話を止めると、相手は畳み掛けるように喋り続けた。


『なにかあった?』


 いつの間にか、沖田が知っている羽衣石に変わっていた。彼女も勝負を前にピリピリしている。


『違うんだ。また混線して、例の女の子と会話してたんだよ』

『……なんか用だったの?』

「ちょっと緊張して、話せないかと思ったんだ。でも、もう大丈夫」

『……なら良かった。時間には遅れないでよ。ほんのわずかなミスだってできないんだから』

「あ、ちょっと……」


 沖田が計画を詰めようと言う前に、電話は切れてしまった。彼女もかなり余裕をなくしている。これ以上話し合っても、蛇足になって却って混乱しかねない。

 もう一人の羽衣石に肝心なことが伝えられなかった。もう一度電話してみようかと思ったが、結局やめておいた。やはり、助けは羽衣石愛莉しかいない。未来から帰ってからというもの、運命に翻弄されっぱなしで周りすべてに縋り付きたくなっている。それに、もう一人の羽衣石が一連の流れに組み込まれているのなら、必ず再度接触するタイミングがあるはずだ。

 なんとなしに窓を開けて空を見上げる。黄昏に空が黄金に染まり始めている。

 黄昏の語源は誰そ彼だったな……。

 普段は意識もしない聞き噛りの知識が浮かぶ。昔、街灯などなかった時代は、日が沈んむ従って闇に侵食された。黄泉の国に連れていかれる時間とされ、すれ違う人々は『誰そ彼?』と声を掛け合って、こちらの世界にいる事を確認していた。

 あなたは誰? と確認できるなら、まだ闇の世界に片足を突っ込んだ程度だ。こちらは昔ではない。これから訪れる未来の話だ。もたもたしていたら大禍時となり、冗談抜きで黄泉に引きずり込まれてしまう。


「俺は死なない。絶対に助かる。絶対に切り抜けられる」


 呪文のように、祈りを捧げるように、何度も呟いた。そうすることで自分に暗示を掛けた。体力もそうだが、精神力を蓄えないとウタちゃんには勝てない。

 大丈夫だ。俺は落ち着いている。

 なにをするでもないのに、まんじりともしないで時間だけが過ぎた。もう出なくてはならない。十分に気持ちの整理ができたことが自覚できた。沖田は出掛ける前にもう一度両親の顔を見ておこうと、静かに立ち上がった。

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