第29話 不確定要素

 運命は水面に落ちた木の葉だ。いつどこに着水して、どのくらいの波紋が生じるかはその瞬間まで誰にも分からない。待ち構える未来を知っていてもだ。

 放課後。授業が終わってすぐに駆けつけたのは、もうお馴染みになった感がある『木の実』だった。マスターに「いつものやつ」と言える店を持つのは沖田の憧れだったが、こんな形で常連になるのは遺憾である。

 関口は桜庭に呼ばれたとかで、遅れて来ると言っていた。ウタちゃんの話であることは容易に想像が付く。自分がいないところでどんどん話が進んでいく様相は、ひどく平常心を奪う。


「罠よ。間違いない」


 羽衣石の表情は硬く、絞り出した声はもっと硬質的だった。

 沖田から話を聞く限り、完全に彼が訪れた未来への流れに乗ってしまっている。なんとかして運命に影響を与えて、異なった結果に進路変更しなくてはならない。


「やっぱり、目撃者がいたことがバレてたんだよ。むこうも目撃者が誰なのか必死に探してたはずだわ」

「それを、俺が目撃者だとのこのこと名乗り出てしまったのか……」


 沖田は、喋りながら倒れたいほどの眩暈に襲われた。必死に腐心した結果が自分の方を曝け出すことになるなんて、皮肉どころではない。迂闊な行動を罵りたいが、動かなければウタちゃんにたどり着けなかったのも、また事実だ。


「会わないで、十一月七日までやり過ごせば……」

「無理ね。運命は収束する。こちらが逃げたとしても大きな力が働いて、結局はウタちゃんと対峙することになる。対決は免れないよ」

「そんな。じゃあ、どうすればいいんだよ」

「この件を好意的に受け止めましょう。日時と場所が分かっていれば、対処のしようもある。なにも知らないままいきなり襲われるより、好転したとも言えるんだから」

「けど運命が収束するなら、俺が殺されるってのも変えようがないんじゃないのか」


 目の前が真っ暗になる。絶望が足音を立てて近づいてくるのが聞こえる。ここが店内でなければ、横になりたいくらいだ。


「だから、私が……」


 羽衣石に喋らせまいと狙ったかのように、関口が入店してきた。目敏く二人を見つけると、素早く近づき沖田の隣に座った。

 羽衣石の眉がぴくりと動いたが、この際無視しておく。


「ウタちゃんから連絡があったって」


 背中に電気が走った。沖田と初石衣は目で頷き合った。

 逃げ出したいと心が萎縮する一方で、それは叶わないと諦める境地もあった。ウタちゃんと対峙するのが運命なら、抗おうが必ずそうなる。

 今さらビビるな。腹を括れと己を叱咤した。


「場所を指定されてて時間も遅くなるんだけど、大丈夫かな?」

「……うん」

「場所は木下公園のメタセコイアの森。時間は十一月七日の夜十時を希望してるんだって」


 十一月七日。やはりだ。分かっていたのに、心臓を突かれたような衝撃が襲う。


「……ずいぶん、遅い時間だ」

「どうしても外せない用事があるんだって。サクラちゃんが言ってた」


 木下公園は、都内でも群を抜いた広大さを誇る森林公園だ。遊具を備えた冒険広場やジョギングや散歩を楽しむ遊歩道などが整っている。地元の人たちの憩いの場として人気があり、老若男女を問わずに利用されている。ただし、それは日中の話である。日が暮れた途端に人の往来はなくなり、都内とは思えないほどの冷ややかな静寂に包まれる。

 公園という場所は昼と夜とでまったく違う顔を見せるものだが、木下公園は広い分だけその差が顕著に表れる。そんな場所を、しかも夜も更けた時間を指定してきたところにウタちゃんの歪な執念が見えた。

 羽衣石が頷く。受け入れろと言っているのだ。

 沖田は覚悟を決めた。いや、覚悟ならとっくに決めたはずだ。


「了解。十一月七日の十時にメタセコイアの森だね」

「じゃあ、サクラちゃんに連絡するね」


 関口はスマートフォンの通話アプリで桜庭に連絡した。繋がると同時にスピーカーフォンに切り替えた。沖田たちにも会話が聞こえるように配慮したのだ。


「あっ、サクラちゃん? 沖田はオーケーだって」

『分かった。鵜高には僕から伝えておく。それから、僕も同行するから』

「サクラちゃんも行くの? なんで」

『なんでって、互いの了承があったとはいえ、そんな夜更けに男女二人だけで会わせるわけにはいかないだろう』


 桜庭は妙に折り目正しいことを言ってきた。砕けていても、さすが教師といったところか。

 関口は目だけで沖田の返事を促した。

 沖田は少し迷ったが、羽衣石が反対する素振りは見せない。頷いてそれで良い旨を伝えた。桜庭が同行するのなら、ウタちゃんも迂闊に凶行に及ばないだろうとの計算も働いた。


「良いよ。沖田にはそう伝えておくから。それじゃね」


 関口は通話を終わらせた。店内を飛び交う雑音が一気に近づく。


「桜庭っていう先生も、一緒に来るのね」


 羽衣石が確認する。


「一緒に来るというか、彼が連れてくるみたいね」

「妙ね……」


 彼女の割り切れない呟きは、沖田の不安を増大させた。


「なにが?」

「……いえ、なんでもない」

「なんだよ。気になるだろ」

「あんまり複雑に考えると、真実を見失ってしまう。よけいな心配はしないで」


 無理な相談だ。命が懸かっているのに心配しないなんてできるわけがない。彼女が言いたいことは理解できるが、分かっているからといってもできることとできないことがある。意識せずにいられるとしたら、それは死を受け入れた瞬間だ。


「で、当日はどう出るつもり? 作戦会議するんでしょ?」

「……あなたはもう帰りなさい。私と昌宏だけで話し合うから」

「愛莉さん?」

「なにそれ」


 関口は不機嫌を顕わにした。当然の反応だ。ここまでお膳立てしてくれた功労者は彼女なのだから。


「ここから先は冗談抜きで危なくなる。あなたが知るべきじゃない」

「冗談? うちがお遊びや酔狂でここまでやってると思ってんの? あんたらが明日菜の敵を突き止めるって言うから……」

「お願い」


 羽衣石は頭を下げて関口を遮った。強気な彼女らしからぬ態度に、関口だけでなく沖田もたじろいた。


「気分を害したなら謝る。でも、髪の毛一本も通さないほどの緻密さが必要なの。できなければ昌宏が死ぬ」


 鬼気迫る言い方に不穏な内容。関口の気持ちが後退った。


「羽衣石さん、なに言ってるの? 沖田が死ぬって……」

「お願い」


 羽衣石がもう一度頭を下げる。意味が分からなくても、精神に訴え掛ける必死さがあった。

 関口はしばらく無言で羽衣石を睨んだ。頭の中では様々な憶測が飛び交っているのだろうが、羽衣石からただならぬ懸命さが出ているので言葉を発せないでいるのだ。

 彼女は表面こそ浮ついているが、けっして頭が悪い人物ではない。説明できないなにかが、まだ自分が知らない部分があるのだと察した。そして、沖田の命が懸かっていると言われれば、受け入れるしかないと甘んじる分別もあった。


「……分かった。今日は引き上げる」

「ごめんなさい」

「いいよ。その代わり、十一月七日に置いてけぼりはなしだからね」

「分かった。関口さんにも必ず参加してもらう。あなたにしか頼めないことがあるから」

「約束だかんね」


 関口は流れるように立ち上がり、そのまま出て行った。気まずい雰囲気を残さないよう気遣ってくれたのだ。彼女の優しさに感謝しながら、沖田は改めて羽衣石と向き合った。


「彼女に言えるわけないよね。俺がウタちゃんに殺される未来なんてさ」

「殺させないよ。……私も一緒に行く」

「え?」

「最初に言ったでしょ。私が昌宏を守るって」

「気持ちはありがたいけど……」

「なに?」

「愛莉さんに、あまり危ない真似はさせたくない。相手はすでに一人殺している危険人物だ。巻き添え食って怪我なんかされたら、申し訳ないよ」


 沖田の弱気な態度に、一瞬だけ羽衣石は泣きそうに口元を歪めた。


「私が、私だけがここでは不確定な要素なの。運命を変えられるのは私しかいない。私にしか昌宏の運命は変えられない」


 沖田には羽衣石がなにを言っているのか分からなかった。不確定とはなんのことだ。問い質す前に、羽衣石は話を進めた。


「腹を括りなさい。戦いに勝った者だけに未来が訪れるんだから」

「……分かってる。愛莉さんが一緒なら、なんとかなる気がするよ」


 いくら強がっても、鼓動の高鳴りがやまない。羽衣石がいなければ、既に逃げ出していたかもしれない。しかし、全力で逃げても夜の来訪は避けられないのと同じで、どうしてもその時は来てしまうものだ。

 無駄だろうが悪足掻きだろうが、立ち向かうしかない。自分を守ると言ってやまない不思議な女性、羽衣石が現れたことには必ず意味があると信じて、対決に臨むしかないのだ。

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