第24話 名前
秒針が進むのをじりじりと眺めていた。壁に掛かっている時計を壊してしまいたいが、原型を留めないほど徹底的に破壊したところで止まるのは時計という道具であり、『時』ではない。
三人は互いの目を見つめられないほど、落ち着かなかった。ハンジローの所有者が特定できない。今日は十月三十一日。沖田が殺害されるまで、あとわずか一週間だ。タイムリミットが迫っているのに、ウタちゃんの片鱗さえ掴めていない
西原高校を受験した際、終了を告げるチャイムが迫っていても、ここまでの焦りは味わったりしなかった。今もっとも避けなければならないのは、考えることを放棄することだ。人事を尽くして天命を待つという教えがあるが、これは待っていれば解決する類いの問題ではない。
「……なにかを見落としているんだ」
沖田の独り言とも訴えともつかない呟きに、羽衣石と関口は顔を上げた。
「これからどうすんの? もう手は打ち尽くしちゃったよ」
関口の言葉にいつもの鋭さがない。まるでウタちゃんにたどり着けなかったのは自分の責任と感じているようだ。もちろん、そんなことはない。それどころか彼女がいなければ、この不可解な事態にさえ進んでいないはずだ。感謝こそすれ非難する気など毛頭ない。
「……ハンジローの謎は置いといて、とりあえず柳井とつき合いがあったやつを探してみる。なんか異様な雰囲気だったけど、二人で神社に来るくらいだから険悪な関係ではなかったんじゃないかと思うんだ」
「交友関係から洗っていくのね?」
関口は刑事ドラマで知った言い方を使った。そして、その案に対する不安も続けた。
「でも、明日菜の友達ならうちが知ってる以上はいないと思うけど」
「彼女の人間関係すべてを把握していたわけじゃないだろ。千晶さんは柳井さんと同じ中学って言ってたけど、もし近所に幼馴染みがいて交友が続いてたら? 今じゃネットで知り合ってつき合いが始まるなんて珍しいことじゃない」
「そうだけど……。そんな仲が良い子がいたんなら、うちに秘密にしておくとは思えないよ」
「そうとも言いきれない……」
「え?」
羽衣石が割って入った。というより、彼女の独り言に関口が反応したといった方が良い。
「そうよ。その可能性を考えなかった」
「いったいなんのこと? なにを言ってるの?」
「ウタちゃんが無理じいされていたって可能性があるでしょ。昌宏の話だと、柳井さんがウタちゃんをからかっていたような感じだし」
「無理じい……?」
「学生にだって上下関係があるでしょ。海外から変な影響を受けて、より顕著になってるし」
沖田にはそんな関係はない。少なくとも、自分は誰より優れているとか劣っているとか意識したことはない。
例えば、体育会系のクラブは先輩後輩の垣根が高いとか、新入部員がパシリをさせられているとか、そういった歪んだ関係があることは知っている。そんなのは、自分には関わりのないことだと思っていた。しかし、それは沖田の認識不足であって、人というものは常に自分の立ち位置を意識して、より高い場所に身を置こうと考えている。高い位置にいればより良い思いができるからだ。善悪とは別のところで育まれてきた人間の本性であり、社会から逃れられない限り、あらゆる集団で取り込まれてしまう仕組みだ。
沖田のように他人と一定の距離を保ち、どう思われてようが知ったことではないねと構えていられる方が少数派なのだ。
「学生間の階級か……。そういうの、なんていうんだっけ?」
「スクールカースト。名前は大事よ。いじめとかハブるは昔からあったけど、スクールカーストって呼び方が浸透したせいで、曖昧だった輪郭がはっきりとして、より明確な線引きとなった。それだけ、学生たちは階級差を敏感に意識するようになり、なんとなく形作っていたものがメカニズムとなって自分たちを縛りつける。自分より知力や腕力が劣っているのに上司に媚びるのは、大人になってもこのメカニズムに支配されているからなのよ」
人生の縮図を説かれているようで、羽衣石の苦労が窺い知れた。メカニズムというのなら、死に繋がる運命というメカニズムから逃れなくてはならない。
羽衣石も、沖田を見捨てて逃げ出せば楽になるだろうに。彼女の揺るがない闘志の源はなんなのだろうか。
「すぐに呼び方を決めたがるやつっているでしょ。推し活とかソフト老害とか。それまでなにげなくしていた行為が一つのジャンルに確立されてしまうと、今度は人が振り回されるの。こうしなきゃ格好悪いと無意味な努力をしたり、自分は時流に乗ってると勘違いして調子づくとかね」
「なんの話だよ?」
「名前は呪いって話よ。あなたの良いところは、無頓着であるがゆえに自由ってところね」
羽衣石の口調に熱が帯びる。このままでは話が大きく逸れてしまいそうなので、沖田は慌てて軌道修正をした。
「そりゃどーも……。それじゃ、柳井の友人よりも、虐げていた相手をみつけるべきなのか」
「私はそう思う。ダンス部員がハズレだった以上、そっちを調べた方が可能性が高い。殺されたのも、そこら辺が動機なのかも」
「なるほど」
「ちょっと待って」
今度は、関口が二人の会話を断ち切った。
「今の話だと、明日菜がいじめをしてたみたいじゃん。あの子はそんなことしないよ」
「本人からしてみればほんのおふざけでも、やられている当人からしてみれば我慢しがたいことって結構あるものよ。柳井さんはそういうの察せられる子だった?」
「……それは」
関口が言い淀んだのを、羽衣石は聞き逃さなかった。
「心当たりあるのね?」
「あれは……昔のことだし、本人も反省してたし……」
「話して。ハンジローから手繰れない以上、少しでも可能性があるものに頼らなくちゃならないんだから」
「……………………」
「犯人を捕まえることが、柳井さんにとって一番の弔いになる」
一番の弔いになると言われれば、隠し立てするわけにもいかない。完全に納得したわけではなさそうだが、羽衣石に詰められて関口は渋々といった具合に語り始めた。
「……三年の頃だったんだけど……あ、中学の時の話ね。明日菜に好きな子ができて、ちょっかい出しすぎちゃったことがあってさ」
「ちょっかい? どんな?」
「フツーだよ。変なアダ名で呼んだり、物を隠して困らせたり。好きな相手につい意地悪したくなるってやつ。沖田も男なら分かるだろ」
「まあ、いや……」
沖田はこれまでの人生を振り返った。そんなことをした相手などいただろうか。答えは否だ。そこまで思い入れた異性など皆無だった。それに、男ならと言われたが柳井は女だ。
「それがちょっとエスカレートしちゃって、クラスで問題になっちまって」
「問題になるくらいなら、それはもういじめじゃないの?」
羽衣石の意見はもっともだが、関口は語尾を跳ねさせた。
「相手の高橋ってのが神経質なヤツだったんだ。受験生シーズンだったこともあって、大げさに騒いだだけだよ」
「相手がどう思うかで、いじめの定義は変わるものよ」
「明日菜は、ちょっと不器用なところがあってさ……。相手にどう想いを伝えれば分からなかったんだよ。表現が下手っていうかさ……」
関口の力ない弁解は、聞いていて胸が締め付けられた。柳井がやりすぎたと分かっているのだ。それでも、友達の名誉を守りたいため必死に庇っている。
「相手が嫌がっているのに、ちょっかい掛けるのを止めないなんて理解できないな」
沖田の不用意な発言だった。彼は人間関係が希薄な性格であるがゆえ何気なく放った一言だったが、関口を怒らせるには十分な攻撃力を内包していた。
「あんたになにが分かるのっ」
関口の反撃が爆ぜた。突然のことだったので、沖田は弁解の機会を逃してしまった。
「だいたい、沖田はなんでも他人事なんだよっ。ダンス部員にもサクラちゃんにも、訊いたのはうちじゃんっ。演技までしてさっ。あんたはただ見てただけだろっ」
効率的な方法を取った結果なのだが、人には感情がある。それが最善の策だったとしても、必ずしも論理的に消化できるとは限らない。
「いや、俺はただ……」
「なにもしないなら、この件に関わるなっ」
関口の罵倒に続いて、乾いた音が店内に響き渡った。羽衣石が関口の頬を張った音だった。
沖田は驚いたが、関口も同様だった。なにが起きたのか理解が追い付かないようで、呆けた目を、ガラス越しの人の往来に固定した。
静まり返った店内を、羽衣石の静かな怒りが支配した。店員も驚いた様子でこちらを凝視していたが、口出しして良いものか思案して固まっている。
「それ以上言ったら、私が許さない」
関口の目がみるみる潤んでいった。他人に殴られるのは初めてのことだったのかもしれない。いや、それより関口にしてみれば羽衣石は出会って間もない素性も知らない女だ。そんな相手に不条理に平手打ちをされて、悔しさと困惑で判断力が停止してしまっていた。
全身を震わせながら羽衣石を睨んだ。また声を張り上げるのかと思ったが、頬を押さえて駆け足で店を出ていった。
「千昌さんっ」
沖田は後を追おうとしたが、羽衣石に遮られた。
「私が行く」
「でも……」
たった今、傍観者的な振る舞いを罵られたばかりだ。羽衣石に行かせたら、彼女の怒りが再燃してしまうのではないか。そんな心配に気持ちが縮こまった。
「こういう場合、女同士の方が良い。昌宏はここで待ってて」
「……頼む」
席を立った羽衣石は、考えが読み取れない目で沖田を睨んだ。
「昌宏は」
「え?」
「昌宏は、もっと人の心を知る努力をした方が良い」
言い残して、羽衣石は急ぎ足で関口が去った方に消えた。
店内に残された沖田は、好奇な目に晒される羽目になり、針の筵に座らされる気分を味わわねばならなかった。
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