第23話 迷路
職員室の前に立つと、いつも気後れする。教師が苦手というわけではないが、扉の向こうと廊下の間には、大人と子供の明確な境界線が引かれている気がするのだ。
廊下の端に視線を投げると、沖田が申し訳なさそうにこちらを見ていた。動いているのは自分で、彼は報告を聞いているだけではないか。
ふと疑問が湧く。沖田が真相を追う理由はなんだろう。犯行を目撃していながら阻止できなかった罪悪感か、もしかしたら明日菜に好意を寄せていたのかもしれない。なんにせよ、いつも追い詰められた顔をしている。接しているだけでこちらまで緊張感を強いられる。ピリッと電流を流されたみたいに心が苛ついた。
こんな所で躊躇ってもしょうがない。第一、ずっと立ち尽くしたままでは不審に思われてしまう。切り出してしまえばどうにかなると開き直り、扉を勢い良く開けた。
「失礼します」
職員室に一歩踏み込んだだけで、空気が膨張した。図書館や病院の待合室のように静まり返っているわけではないのに、やはり雰囲気が違う。社会人と学生の差を押し付けられている感じで、けっして心地好いものではなかった。
桜庭の席は知っているが、当人の姿が見つけられなかった。
トイレにでも行っているのか……。
改めて来るか待つか迷っていると、背中から声を掛けられた。
「関口? どうしたんだ」
「あっ、サクラちゃん」
「桜庭先生だろ」
桜庭は気を悪くした様子もなく諭した。彼は呼び方なんかに拘る教師ではない。他の教師の目を気にしての注意だ。それが分かるからこそ、関口は素直に従った。
「僕に用か?」
関口の横をすり抜け、彼女にも進むよう促した。
桜庭は自分の席に腰掛けると、関口を見上げた。用件を言えという仕草だった。
「あ……ええとさ、うちらが持ってるハンジローなんだけど……」
「うん?」
「最近、新しいの貰いに来た子っていないかな?」
「……いや、そんな子はいないが……。どうしてだ」
桜庭の返答に、今度は鼓動が止まる思いだった。心臓に負担が掛かりすぎて息苦しくなる。
ハンジローを貰いに来た者などいない。つまり、ダンス部員のハンジローは、すべて入部時に渡された物だった。それでは、沖田が拾ったというハンジローはなんなのだ?
「それがさ、なんか……」
関口は必死に脳を回転させた。脳内では何度か繰り返しシミュレーションしたのに、いざとなるとほとんど引き出すことができない。それなのに、口からでまかせが滑るように出てきた。
「ハンジローを拾った子がいて……」
「拾った?」
桜庭の声に不審な色が足された。
「返したいって言ってるんだけど、相手が分からなくて困ってるって……」
苦しいでっち上げに、どうしても語尾が弱々しくなってしまう。
「そういうことなら、僕が預かろう。これから貰いに来る子がいるかもしれない。その子が落とした子なんだろうから、僕から返してあげれば良い」
「それが、本人に直接返したいって言ってて……」
関口のもじもじした態度が、桜庭の勘違いを誘発した。
「……ひょっとして、男子か? 職員室の前を所在なさげに立ってた生徒がいたが……。あれはたしか、B組の沖田くんだったな」
桜庭の教師としての目聡さに舌を巻いた。担当でもないのにクラスと名前が即座に出たところなど、さすがと思わざるを得ない。同時に、簡単に悟られるような待機をしている沖田の無用心さを罵りたくなった。
「そう。そうなの。あいつ、落とした子に一目惚れしたらしくて、どうしてももう一度会いたいってしつこくって……」
「一目惚れって、その子を見たのか?」
桜庭の反応に緊張が走った。一目惚れなどという感情的な想いで教え子に懸想する男子が現れたとなれば、顧問からすればあまりありがたくない傾向なのだろう。
沖田には悪いと思ったが、ウタちゃんに迫るために吐く嘘だ。それに、目を付けられる方が迂闊なのだ。都合の良い言い訳をして自分を正当化させた。
「ううん。見たのは後ろ姿だけだって。だから、尚のこと気になっちゃったみたい」
「そーゆー……」
桜庭は腕を組んで、しばし思案に暮れた。恋愛はデリケートな問題だ。彼なりに沖田と名も知れぬ相手を慮っているのだろう。
関口にとってしばらく気まずい時間が流れてから、桜庭は口を開いた。
「しかしな……。僕は沖田くんをよく知らないんだが、落とした子と会話したわけじゃなく、したがって性格なんかは知らないわけだろう? つまり、彼は見た目だけでその子を好きになったってわけだ。一目惚れが悪いとは言わないが、相手からすればちょっと不気味に感じるんじゃないのか?」
「でも……」
「まあ聞け。それに、彼は自分で直接僕のところには来ないで、関口に頼んでいる。教師としてあまり持ってはいけない考えだが、少し粘着的なものを感じるんだ。慎重に話を進めないと、お互いにこれからの人生に良くない影響が出る可能性だってある」
持って回った言い方が気になった。普段は溌剌としている桜庭らしからぬ態度に、関口は一つの可能性に行き着いた。
「もしかして、やっぱり貰いに来た子がいるの?」
質問を投げ掛けてから、関口の心臓が大きく跳ねた。自分から出た言葉に、自分で驚いている。もしそうなら、部員の中に素知らぬ顔で新しいハンジローを出した者がいることになる。
「それはない。生徒に対して嘘なんか吐かないよ」
信用して良いものだろうか。真っ直ぐ見つめられ、目を逸らしたのは関口の方だった。桜庭の言葉に嘘がなければ、一つ余分なハンジローが存在する。生じた矛盾に頭が混乱する。
不安が顔に出てしまった。桜庭が心配そうにしている。
「顔色が悪いぞ。立ちくらみか? 座るか?」
壁に立て掛けてあったパイプ椅子を広げた。
「ううん。大丈夫。サクラちゃんの言ってることは分かったよ。沖田には、うちから言っとく」
知りたいことは知った。大きな疑問が生じた答えだった。早くこの事実を分析して、謎を解明しなくてはならない。
「それじゃ、失礼します」
「おい? 関口?」
桜庭の呼び掛けを振り切り、関口は職員室を後にした。焦ってしまい桜庭に怪訝に思われてしまったが、沖田の期待に応えられなくて不貞腐れたとでも思ってくれれば良い。
それにしても、この状況はいったいなんなのだ? 一歩前進する度に不可解な解答を突きつけられて、新たな疑問が生じてしまう。単純な一本道だと思っていたのが、じつは複雑な迷路だった。
警察は犯人を捕まえることができない。
羽衣石の言葉が、頭の中をぐるぐると行き来していた。
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