第13話 敵

 あの日以来、沖田の学園生活はひどく肩身の狭いものになってしまった。常にビクビクしているので、周囲の者はやんわりと距離を取るようになった。最近では両親ですら見えない壁を構築しているように感じる。


「このままじゃ、心の方が先に死んじまう……」


 先日訪れた神社に再び足を運んだ。神社に足繁く立ち入るなどこれまでになかったのに、吸い寄せられるように来てしまった。これから遭遇するであろう『きっかけ』に思い至ったのも、この場所だった。あの時のように再びなにかしらの啓示を与えてくれることを期待しての回り道だった。時越えの経験をしてから、神憑り的なものを無視できなくなっているのか……。

 賽銭箱に十円を投げ入れ参拝してから、やはり前日と同じく社殿の裏のベンチに座った。

 とにかく一人になりたかった。他人が近づく度に落ち着かなくなるので、精神の疲労感が凄かった。激しい運動をした後は休憩が必要なのと同じで、誰とも接さずに心を休めて考え事ができる時間が欲しかった。静謐な場所で心地好い風に晒されていると、つい気持ちが弛緩する。毎日のプレッシャーから来る疲れも相まって、ろくに思考を進めないのに意識が沈んでいった。


「…………? ……っ!」


 沖田は我に返って閉じていたまぶたを跳ね上げた。よほど心労が溜まっていたのか、いつの間にか居眠りをしてしまったようだ。

 外で眠っちまうなんて正気か?

 たまに居眠り運転で事故を起こしたというニュースを見るが、その度に馬鹿の所業だと見下していた。それなのに、自分も同じような愚行に至ってしまったことに怒りが込み上げてくる。

 一度冷や汗をかくと、今度は一人でいるのがひどく心細くなってくる。やはり人が集まる場所にいた方が安全なのではと考えが二転三転する。

 立ち上がりかけた時、草木の向こうから声が聞こえた。ただの話し声ではなく、隠微さを含んだ秘密めいた会話だった。


「こ……ま、中……広…………こうよ」

「だ…………って」


 聞き取りづらい会話だったが、戯れの仲らしいことは分かった。おおかた、女子高生がふざけあっているのだろう。胸を撫で下ろしたが、一人でいるのはやはり心許ない。早くこの場を去った方が良いという判断に変更はなかった。


「ほんと……いいね。ウタちゃんは」

「いい加減にっ」

「ぐっ?」


 背を向けたものの、その場で足を固定されてしまった。姿が見えない二人のやり取りが、急に鋭利なものに変わったからだ。引っ込んでいた電流が、再び首筋を走った。

 今の苦しげな声はなんだ? 確認した方が良いんじゃないか?

 沖田は気配を消して、二人がいるであろう場所に近づいた。好奇心というよりも、我が身を守るための知見を拾うための行為だった。材料が少ない故の不安は、未来の世界で嫌というほど味わった。

 物音を立てないよう、足音を殺して慎重に進んだ。視界の中に浮いた物を捉えた。何気なく落ちていた物だが、沖田の目には異質な物質に映り、奇妙なほど目立った。

 屈んで拾うと、掌に収まるほどのフェルトの小物だった。ディフォルメされた猫がジャンプしているポーズで、なにかのマスコットらしい。頭頂部から輪になった状態の紐を生やしており、鞄やスマートフォンに付けられるようになっている。どこかで見たような気がしたが、すぐには思い出せなかった。


「ぐっ、げっ」

「!?」


 また聞こえた。蛙を踏んで徐々に体重を掛けるような、嫌悪感を抱かざるを得ない苦痛に満ちた声だ。沖田は咄嗟にフェルトの猫をポケットにしまった。なにか考えがあったわけではない。反射的で無意識な動作だった。

 改めて息を潜めて、声がした方に進んだ。

 いた。社殿のすぐ脇で鳥居側からは見えない位置だ。影が伸びているので、闇に溶け込んでいる錯覚を覚える。一人は制服を着た女子高生だった。デザインを見て驚いた。あれは沖田が通う西原高校の制服だ。もう一人は丈が長い花柄プリントのワンピース着ていた。肩紐の幅が広くリボンのように結んである。肩と背中が大胆に露出しているが、いやらしさはない。むしろさわやかな印象を受ける。髪は長く腰の辺りまである。

 ワンピースの女が女子高生に覆い被さっていた。はじめはなにをしているのか分からなかった。二人が重なっていたので、死角ができていた。嫌な予感を抱きながら、音を立てないように移動し横に回り込んだ。


「っ?」


 社殿の影の向こうに展開されていた光景は、一瞬で沖田の脳に焼き付いた。

 ワンピースの女が襲い掛かって首を締めている。女子高生は苦悶で顔が歪んで素はどんな顔かも分からないくらいだ。必死に手を外そうともがいているが、力の差があり過ぎるのか、抵抗にもなっていない。

 沖田は口を大きく開けたが、声は出せなかった。驚愕のあまり思考も体も固まってしまうなど、初めての経験だった。助けるべきなのか、逃げるべきなのか、大声を出すべきなのか。どれが正解なのか判断できなかった。


「顔……顔を確認しなければ……」


 女子高生を助けるよりも、ワンピースの女の正体を掴む方を優先したのは、この瞬間が自分の運命に直結していると悟ったからだ。本能の訴えが、沖田にそう行動させた。

 ワンピースの女は、体つきは華奢なのに力は相当強かった。確実に相手を殺そうとしているのは、浮き出た血管を見れば明らかだった。女はつばの広い帽子を被っており、顔が見えなかった。このことは、後々まで沖田を苦しませる痛恨になる。

 とうとう女子高生の力が費えて、腕がだらんと降りた。それでもワンピースの女は握力を緩めることなく、なおも体重を乗せる。


「け、警察……」


 やっと警察を呼ぶという発想に至ったのは、ワンピースの女が手を離した時だった。

 スマートフォンを取り出そうと体勢を変えたせいで、踏んでいた小枝がぱきっと音を立てて割れた。小気味良い音だったが、沖田からしてみれば肝を縮み上がらせる警戒音だった。


「っ!? 」


 ワンピースの女がこちらに顔を向けた。人相を確認する千載一遇のチャンスだったが、沖田は恐怖に屈してしまった。顔を見ることなく脱兎のごとく駆け出した。振り返る余裕など、とても持てなかった。

 見られたっ? 見られてしまった?

 顔を見られなかったとしても、制服を着ている。しかも襲われた女子も西原高校の生徒なのだ。同じ学校に通う学生であることは、調べるまでもなくばれてしまった。

 混乱に陥りそうになるのを必死に堪え、沖田はがむしゃらに足を動かした。この瞬発力をさっき出せていれば、女子高生は死なずに済んだ。いや、と思い直す。もしかしたら、まだ生きているかもしれない。今からでも警察を呼ぶべきだ。


「………………」


 呼吸が限界を感じ、手足の回転が徐々に鈍っていった。焼け付く喉をなんとか開き、一一〇番に繋げた。しかし、繋がったと同時に、通話を切ってしまった。どこから死の影が迫ってくるか分からない恐怖が、沖田の倫理観を容易く覆した。


「あれだ……。あれが俺を殺す敵だ……」


 自らの呟きが針となって、沖田の心臓に突き刺さった。

 くそっ。よりにもよって、なんで今日なんだ?

 あの時間だったんだ?

 あの場所だったんだ?

 なんで俺はあそこに行ってしまったんだ?

 なにが神の啓示だ。信ずるべきは神ではなく因縁の方だった。

 ちくしょうっ。ちくしょうぅっ。

 運命に捕まったと実感した。どれだけ目を背けようが、いつの間にか足音もなく這い寄っていた。確実に自分に接近していたのだ。もしかすると、なにをしようが運命を覆すことなど不可能ではないのだろうか。

 後ろから肩を掴まれたような重たさに厳しい息苦しさも手伝って、シャツは水に浸したように汗でびしょ濡れになって肌に張り付いていた。

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