第12話 新学期
夏休みが終わった。
九月二日になった。二学期の初日だ。月曜日からなので、なんとなくリズムが良いスタートとなった。しばらく静かだった通学路に子供たちが戻ってくる。はしゃぐ子供の動きは危なっかしいので、自動車の運転を生業にする人たちにとってはあまり喜ばれない時期だ。
沖田が通う西原高校は公立の総合学科で、進路希望に合わせて幅広く学習ができる体制になっている。沖田のクラスは三年B組だ。
クラスメイトが口々に休暇中の過ごし方を報告し合い、教室は朝から賑やかだった。沖田も何人かと言葉を交わしたものの、気分がすぐれず中途半端で終わる会話に終始してしまった。不思議そうに眉をひそめる者もいたが、理由を深く追求してくる級友はいなかった。沖田の他人に対する関心は薄い。そして人間関係は鏡の像だ。沖田が相手を深く思わないように、相手も沖田のことを本気で心配しない。
今日は始業式とミィーティングを行うだけで昼には解放された。本格的な授業は明日から始まる。沖田たち三年にとっては、今後の方向を左右する大事な時期となる。
他の者にとっては、まだ夏休みの余韻から抜けきれないだるい放課後だろうが、沖田からしてみれば死刑執行を待つ囚人の気持ちだった。今日も日差しが厳しい。暑さとは違う理由で、じりじりと首筋が焦がされ汗が背中まで伝う。
下校時の生徒たちは、色を付けたくなるほど二種類に分かれていた。学友との再会を喜びはしゃぐ者。声に張りがあって歩き方からして元気が溢れている。そして夏休みの終了を嘆き気怠そうに肩を落としている者。週明けの電車の中で、同じような顔をしているサラリーマンをたくさん見掛ける。
沖田は自分は後者のグループに属するのだろうと自己分析する。おそらく、仕事がどうだとか勉強がどうだとかはあまり関係なく、他人に関わること自体が億劫なのだ。外に出れば、望もうが望むまいが予想外のことに遭遇する。他人と関わり不快な気分を味わう。日常に退屈しているくせに、線からはみ出したことに対処するのが苦手なのだ。
時を越えるなどという奇跡的な体験を経ても、いきなり性格が陽気になるわけではない。自嘲的なプレッシャーに心が歪む。
「柄にもなく旅行になんか出るから、こんな厄介なことになってるんだ……」
不思議な体験して死の運命を予知できたことは、とんでもない僥倖だったと考えられる。しかし、内容が重大すぎる。今の沖田には危機を回避するチャンスを得たと、大胆に捉えることができなかった。
沖田はまっすぐ家には帰らなかった。学校近くの神社の鳥居をくぐり、片隅に設置されているベンチに腰掛けていた。境内が立派なわりには人気がなく、沖田がいる場所は社殿の裏に位置している。日中といえども人の往来などない。わざわざ人気のない場所を選んで寄り道したのは、程よい雑音が耳を掠めるだけのこの場所は考え事をするのに集中できると思ったからだ。
通常の生活に戻れたものの、沖田は新たな驚異に戦かなくてはならなかった。あの経験で得た情報が真実ならば、自分は年内に殺害されてしまう。
精神が焦るばかりで削られていくのは避けたかった。犯人が分からない以上、対策の立てようがない。記事の詳細は覚えていないが、死体が発見されたのは西原高校からさほど離れていなかったと思う。つまり、学校からなら歩いてでも行ける距離であり、そのことを考えると背筋に微弱な電気が走った。発見場所の近くには何メートルも引き摺られた痕跡があり、殺された後に運ばれた可能性が高いと書かれていた。
死体を隠そうとした。少なくとも、明るみに出るのを遅らせようとした意図が嗅ぎ取れる。それはつまり、通り魔的な犯行ではないことを意味している。通り魔ならそんな小細工などしないで、さっさと現場から離れるはずだ。
死体が発見される当日まで家に引きこもることも考えたが、後ろ向きの姿勢で運命が変わるとも思えなかった。
たとえば、自分の死を知らなければ、今日の放課後に神社に寄ろうなどとは考えなかった。それでも、無事に家に帰り着くことはできるのだろう。細かな点では微妙な変化は生じるのだろうが、それは一度本道から外れて裏道を通り、再び本道に戻るようなものだ。
タイミングがずれたり、場所が変わるだけで、結局は同じ結果に帰結してしまう可能性が高い。そう思わざるを得ないほど、未来の世界は沖田の死を受け入れていた。
時越えの経験から得た教訓は、生きるには自分から行動しなくてはならないということだ。世間は甘えられるほど優しくはなく、無条件で救いの手を差し伸べてはくれない。助けてもらうにしても、こちらから声を大にして懇願しなければ関わろうとしないものだ。冷たいというのではなく、それが人の基本姿勢だと学んだ。
先日、飲み物を恵んでくれた男性を思い出した。あれは滅多に巡り会えない奇特な行いだったのだ。それとも、あの男性もなにかしらの見返りを期待していたのか。対象が沖田でなくとも、情けは人の為ならずの精神で助けてくれただけなのか……。
動かなくてはならないが、指針がない以上は無作為な足掻きにしかならない。海図も羅針盤もない船は、必ず遭難する運命にある。だから、集中して考えられる場所に来て思考を深めることにしたのだ。
まず犯人像を固めてみることから始めた。最初から思ったことだが、殺され方が尋常ではない。刺し殺されたとかなら、頭がおかしい狂人に襲われた可能性もあるが、くびり殺されたとなれば、怨み辛みの怨念が透けてくる。つまり、犯人は自分と馴染みがある人物だ。そして、方法から見ると、男である可能性が高い。
自分に恨みを持つ男……。ぱっと浮かんだ人物はいなかった。
まだ二十年にも満たない時間ではあるが、生きていればそれなりの諍いも経験する。それでも、殺されるほどの強烈な恨みを買った覚えなどない。どうしても思い浮かばない。それとも、自分では気づかないうちに、誰かを傷つけていたのだろうか。
「………………」
どんどん弱気になっていく中で、これまでの自らの行為を振り返った。
いじめなど卑劣な行為に加担したことはない。激情に駆られて喧嘩別れした友人もいない。そもそも、そこまで深い絆を結んだ友人など一人もいない。自分にはどこか他人との間に壁を設ける姿勢があり、生来のものだからと治そうと思ったこともなかった。それゆえ、思い当たる不仲など本当に些細なものだ。気に入らない奴の悪口を言ったりもするが、仲間内で愚痴を言い合う程度の笑い話にしかならないものばかりだ。とても殺人に発展するとは思えない。
「つまり、どういうことだ?」
高校受験に向き合った時以上の集中力を発揮し、考えに考え抜いた。煮詰めすぎて焦げついた出汁のように脳を酷使した末、一つの答えにたどり着いた。
しかし、そんな……。まさか、ひょっとして……。
「……これから、なにかが起こるのか?」
ざぁっと全身に鳥肌が立った。それしか考えられない。犯人の動機となるなにかが、これから起こるのだ。標的にされる出来事に遭遇するのだ。そうとしか考えられない。
もっと早く気づくべきだった。どう考えたって、自分が烈火の如き恨みを買う行為に至るとは思えない。今日から事件が発生するまでの間に、なにかしらの出来事に巻き込まれるのだ。
至った結論は、落ち着きをなくした。足下にポタポタと滴が垂れて不規則な模様を形作る。集中している間は、暑ささえも意識の外だったが、思考を止めた途端に堰き止められていたかのように大量の汗が滴り墜ちた。顔を上げると、いつの間にか日が傾き始めていた。推測に没頭するあまり、日没が迫っていることに気づかなかった。
「まずい。この状況はまずい」
沈殿していた恐怖が、死が迫っている危機感が、急速に浮上した。暴走していた車がいきなり方向転換して自分に向かってきたような、心臓を衝かれる恐怖だった。
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