第11話 帰還
鋭い棘のように直射日光が痛い中、沖田は公園のベンチに腰掛けていた。全身に力が入らない。図書館からいつ出たのか、どのようにここまで来たのか、まるで覚えていない。
調べた限りでは、犯人逮捕の報はなかった。自分を殺した犯人は、この世界のどこかを闊歩しているのだ。
まだ昼前だというのに、目の前が暗くなる思いだ。視界が歪んで気分が悪くなってきた。
「んん……」
気のせいではなかった。頭が揺らいで、船酔いしたみたいに胸がムカムカした。
「っ!」
耐えきれなくなって目を閉じた。平衡感覚を取り戻そうと、必死に踏ん張る。座っているのに、転んでしまいそうな不安に襲われ、背もたれにしがみついた。
「……か?」
闇の上から声が聞こえた。はじめは聞き取れないほどのただの音だったが、次第に明瞭な声と認識できるようになった。
「にいちゃん、大丈夫か?」
自分に向かって話し掛けているのだと気づき、沖田は固く閉じていた目を開いた。
見上げると、厳つい顔が愛想よく歯を見せていた。全身の筋肉が逞しく盛り上がり、汚れた作業着を着ている。工事現場で汗を流している人らしいと当たりを付けた。
「あ……大丈夫、で、す……」
「本当かよ? 顔が真っ青だぜ」
「なんか……暑さにやられちゃって」
沖田はとっさに嘘を吐いた。自分は十年前から来たなんて言ったら、頭がどうかしていると思われるに決まっている。
「水分を取った方がいいな。熱中症は怖いぞ」
作業着の男は、レジ袋に入っていた数本のペットボトルから一本を差し出した。中身は緑茶だった。
「そんな、悪いですよ」
「気にすんなよ。これで倒れられちゃ、俺の寝覚めが悪くなる」
男は、なおも押し付けてきた。多少強引ではあったが親切の押し売りとは感じず、素直に受け入れられる自然さがあった。
「すみません。いただきます」
沖田は受け取ると、すぐに開けて半分ほどを一気に飲んだ。冷たい液体が喉を通過する快感は、生きていることを実感させた。気を抜くと泣きそうになってしまう。
「ありがとうございます。助かりました」
「もう大丈夫そうだな」
「ええ。おかげさまで、すっかり元気になりました」
「そりゃ良かった。じゃあな」
男がそのまま立ち去ろうとしたので、慌てて呼び止めた。
「あのっ、お金を……」
「にいちゃん、まだ学生だろう? 金なんか取れるかよ。俺の奢りだ」
「でも……」
「若いうちは、あんまり遠慮するもんじゃないぜ」
男は背中越しに手を振って、行ってしまった。なんの見返りも求めない純粋な親切は、沖田にとっては驚きともいえるほど新鮮だった。今の行為で彼になんの得があるのか理解できなかったが、きっと彼なりの生き方に対するルールに従ったのだろう。これまで人の助けなど期待しないで生きてきたが、困り果てていた沖田には縋りたいほど大きな背中だった。
沖田は残りの緑茶を少しずつ飲みながら考えをまとめようとした。嚥下された水分が瞬く間に汗となって体を湿らせる。いくら考えても、これからどうすれば良いのか皆目見当が付かなかった。
自分の死因は判明したものの、ここでは遥か過去の話だ。犯人は未だに捕まっていないようだが、捕まえたところで自分が生き返るわけではあるまい。それとも、それを承知の上で行動を起こせというのか。つまり、犯人を見つけなくてはならないのか。それが、自分が時を越えた意味なのだろうか。
目を閉じて頭を働かせるが、いくら練っても思考がまとまらない。情報が圧倒的に少ないせいだ。そう思い至り、自分の行動の迂闊さに舌打ちしたくなった。
さっきは狼狽えてしまい、ひたすら犯人だけを追い掛けてしまった。犯人が今もって判明していないのなら、事件の詳細をもっと知るべきだ。犯行現場はどこなのか。発生した時刻は。第一発見者は誰なのか。発見当時の状況は。調べることは山とある。もう一度図書館に戻らなくてはならない。
閉じていた目を開き立ち上がろうとした時、背後で音が響いた。それほど大きな音ではなかったが、沖田は肩が跳ねるほど驚いた。
振り向くと、沖田と同い年くらいの男子が、自動販売機で飲み物を購入しているところだった。連れがいるのか、取り出し口から炭酸飲料を取り出すと、改めて硬貨を投入した。
他人のなんでもない行動が、ひどく神経を刺激する。
くそっ。呑気なもんだな。こっちは窮境にいるってのに……。
八つ当たりな怒りが込み上げると同時に、頭の片隅で警報ランプが灯った。自分は今、流してはいけない重要ななにかを見ている。
なんだ? なにか違和感がある……?
追い詰められた人間特有の、危機から脱出するための直感が爆発した。
「あっ!?」
沖田は叫びながら、男子が去った自動販売機に駆け寄った。
硬貨と紙幣の投入口があった。沖田にとっては当たり前なので見過ごすところだったが、ここでは現金を使う機会が極端に少ない。持っている現金の使いづらさを思い返し、違和感を感じたのだ。
見るのと観察するのとでは、拾える情報量に大きな差が出る。感じたばかりの驚きを教訓にして、改めて自動販売機をじっくり見つめた。
「これは……」
貼られていたキャンペーン告知に、締切日が記されていた。
二〇二四年十月十一日
それはまさに、沖田が戻りたいと切望した時代だ。紛れもなく彼にとっての『今』だ。これはいったい……?
沖田はポケットからスマートフォンを取り出し、ブラウザアプリのアイコンをタップした。
すぐに有名な検索サイトに繋がった。様々な記念日や祝日、著名人の生誕祝いなどをお祝いするためにロゴがしょっちゅうアレンジされるサイトだ。今は海外の文豪らしき人物が、難しい顔をしてペンを持っているイラストだった。
「繋がる……」
今日の日付けと入力すると、土曜日,二〇二四年八月二十四日と大きく表示された。
「うおおっ!」
戻れた! 喝采が叫び声となって迸った。
「ここは現代だっ。いつの間にか二〇二四年に戻っているっ?」
理由は分からないが、現代に帰れたのだ。周囲からすれば、気が触れた少年が叫んでいるようにしか見えない。視線を感じたが気にしてなどいられなかった。
沖田は荷物を掴むと、一目散に自宅へと走り出した。
家が近づくにつれ、鼓動が高まった。汗が瀧のように流れ呼吸が苦しかったが、そんなことはどうでも良かった。
まず、外壁を確認し一気に安堵が広がった。塗り直しなどされておらず、築年数に相応しい傷み具合だ。表札も確認した。アクリルプレートに毛筆体で沖田と記されている。
「……帰ってきた。帰ってこられたんだ」
鍵と取り出そうとポケットをまさぐっていると、背後から忘れようのない声が流れ込んできた。
「あんた、帰ってきたの。予定では昨日って言ってたから心配したわよ」
心臓が大きく跳ねた。振り返ると、母が食品を詰めたエコバッグを持って立っていた。
「母さん……」
「予定を変えたんなら、ちゃんと連絡しなさい。何度も連絡送ったのに見てないの?」
沖田は母の小言を流した。ついさっきまではインターネットに繋がらなかったので、連絡を確認する余裕などなかった。
「父さん……。父さんは?」
「お父さん? お父さんなら散歩に出掛けたよ。お昼には帰ってくるでしょ。早く入りなさい。暑いんだから」
母が促すが、沖田は涙を堪えるのに必死でしばらく動けそうになった。体が震えるのを辛うじて我慢する。
「ほら、入りなさいって。冷たいものでも飲みましょう」
汗が目に入り視界が歪む。母の優しい声に泣きそうになりながらも、本当に帰ってきたんだとようやく実感が追いついてきた。
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