第8話 眩暈
沖田が住んでいるのは東京の東端で、川を一本跨げば千葉県という場所だった。都心に比べれば利便さは及ばないが、煩雑さや気取った見栄などとも遠い場所柄だ。
少し治安が悪いなどと評されているが、それは何十年も前のイメージで、沖田自身はガラの悪さなど感じたことはない。ただ、中国人や韓国人、インド人など、多国籍な人種が集まり町がカオス化しているのが不安といえば不安だ。
地元駅に降りても、違和感は拭えなかった。なんとなく違うとしか表現できないが、その曖昧さが底知れぬ不気味さをまとわりつかせている。道を行き交う人々も、異邦人みたいに一歩分遠く感じる。
自宅までは駅前の商店街を抜けて、さらに十分ほど歩いた場所だ。昼夜を問わず、やたらとシャッターが閉じている店舗が多い。それに全体的に色褪せて見える。何十年も前に現像された古ぼけた写真を見ているのに似ていた。数年前から駅周辺の再開発が進められているから、よけいに古色蒼然に映るのだと自分に言い聞かせながら帰路を急いだ。
前方に家が見えてきた。ありきたりな造りで瀟洒の欠片もないが、やはり安心する。この時間なら、両親ともに家にいるはずだ。沖田はポケットから鍵を取り出した。
「あれ?」
ドアノブの形が変わっていた。鍵を射し込む鍵穴もない。
なんだこれは? と疑問を抱きながら表札に視線を移すと、信じられないものが飛び込んだ。
「ああっ?」
表札には、小泉と記されていた。小泉なんてまったく知らない。親戚にもいない。プレートのデザインもまるで違う。
慌てて玄関から離れて、改めて家を眺めた。今気がついたが、外壁が塗り直されて綺麗になっていた。しかし、間違いなく自分の家だ。
「どうなってるんだ?」
今日だけで、この台詞を何度吐いたか分からない。列車に乗る前から感じていた不安が、臨界点を突破した。足下から崩れ落ちそうになるのを辛うじて堪える。周囲を見渡したが、目に入るすべての光景が信憑性を欠いて映る。
隣の家の壁、あんな色だったか? 向かいの屋根も違うように思える。いったい、なんだというのだ?
とある場所が整地になると、あっという間に記憶が風化してそこにどんな建築物があったか思い出せないのと同様だった。目を開いて瞳に映しているのに、記憶の中の映像を探しているみたいに自信が持てなかった。
とにかく、確認しないと……。
震える指でドアホンを鳴らした。今の沖田のざわついた気持ちとは相容れない軽やかなチャイムが中から聞こえ、来訪者がいることを告げたと分かる。
心臓が跳ねて、数秒の待ち時間が果てしなく感じる。
「……はい」
時刻はもう午前零時近い。スピーカー越しから聞こえた声には警戒心が滲んでいた。応答があっただけでもありがたいが、沖田の喉は痛みでひきつるくらいだった。聞き覚えがない声だ。柔和そうだったが、まったく安心できなかった。
「あの……ここは俺の家のはずなんですが……」
我ながら要領を得ない話をしている自覚はあった。しかし、こう言う以外、どう説明すれば良いのだ?
「はあ……」
思った通り、スピーカ越しからは返答に困った者特有のぼやけた受け答えが聞こえた。
「この家は沖田ではないんですか?」
「……ちょっと待ってね」
先方からすれば得体のしれない相手だ。それにこんな時間に来訪すること自体、只事ではない。それなのに、直に会って応対してくれるようだ。モニターに映った沖田の顔がよほど困窮していたので、同情してくれたのか。
大きく息を吸い込んで待つと、ドアが静かに開いた。
出てきたのは白髪が見事な老婆で、姿勢を正したくなる上品さが滲んでいた。不意の訪問者相手で戸惑いは漏れていたが、警戒心は薄らいでいた。目に怯えはない。名前が小泉だからではないだろうが、澄んだ泉を連想させた。
「…あなた、大丈夫?」
老婆の第一声は、沖田を気遣うものだった。やはり、混乱しているのが分かってしまうくらい、緊張した匂いを発しているのだ。
「……あの……あの、この家に沖田という者は……」
「……沖田さん……。その名前を聞くのは、ずいぶん久し振りね」
「……知ってるんですか?」
一縷の望みを託して質した。しかし、久し振りというのはどういう意味だろう。
「…私がここに引っ越してきた当初は、よく郵便が間違って届いたのよ。沖田さんは、郵便局に転居届けを出さなかったのね」
「……引っ越し? 引っ越したって、そんな馬鹿なこと……」
「……あなた、沖田さんのお知り合い?」
知り合いどころではない。この老婆は、いったいなにを喋っているのだ? なに一つ理解できなかったが、調子を合わせて会話を続けるしかなかった。
「いや……ええ、まあ……。その、引っ越ししてたなんて、全然知らなくて……。なにも聞かされていないんです」
「……無理もないわね。私も後になって知ったんだけど、息子さんを事故で亡くして、かなりショックを受けたんでしょうね」
沖田は、後頭部をスレッジハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
この老婆はなんと言った? なくなったと言ったのか? なくなったとは、亡くなったなのか? 死んだということか? 息子とは誰のことだ? 事故とはなんのことだ?
頭の中で疑問符が乱雑に飛び交う。狼狽で脳内がかき混ぜられ、本当に眩暈を起こしそうだ。
なにもかも見失いそうになる中で一つだけみつけた解答は、ここにいてもなんの解決にもならないという現実だけだった。
「あなた、本当に大丈夫? 私になにか助けられるかしら?」
「一つだけ……」
「え?」
「一つだけ助けてください。小泉さんがこの家に引っ越してきたのは、いつ頃ですか?」
「え、ええ、そうねえ……。かれこれ十年になるかしら」
十年。その歳月に聞き覚えがあった。
沖田は使えなくなっていた乗車券を、バッグから乱暴に取り出した。あの駅員は、この乗車券を十年前のものの言っていた。
二〇二四年。印刷されている西暦だ。これが十年前のものなら、今は……。
「ここは……未来だ」
ずっと否定し続けた可能性を、とうとう受け入れてしまった。頭に浮かんだのは時越えの森だ。あの洞窟だ。言い伝えは事実で、自分も同じ現象を体験している。しかし、あの話では、男は過去に戻って人生を修正したはずだ。なんで未来なんかに来てしまった……?
ここに至って、洞窟の前に立っていた奇妙な老人を思い出した。
『そちらから入る者は珍しいな』
あの老人は、たしかにそう言っていた。本来とは逆の入り口から入ったため、過去ではなく未来に跳ばされたというのか? いや、そもそもタイムスリップが現実に起きているなんて。自分が時を跳んで違う時代に来ているなんて……。
「そ、そんなことが……」
「誰か呼びましょうか?」
小泉の柔和な声が染みた。油断すると涙が零れそうになる。だが、その親切もささやか過ぎて、沖田の力にはなりそうになかった。
「色々と、あ、ありがとうございました。しつ、失礼します」
小泉の反応も待たずに、沖田は駆け出した。
「あ。ちょっと?」
親切な老婆が呼び止めるのを振りきり、沖田は目的地も定めないままひたすらに走り続けた。
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