第7話 帰路
只事ではない様子に、駅員の顔色が変わった。
「お客様? 大丈夫ですか?」
止まっていた思考が、駅員の一言で強引に動かされた。
「あのっ、今年って……」
「はい?」
「……いや……。いえ、なんでも、ない……。ありません」
「……それで、どうしますか?」
「え?」
「この乗車券では、お乗りになれませんが?」
「あ、ああ……あの……」
沖田はすっかり打ちひしがれた。
おそらく、駅員の方が正しいことを言っている。彼は真面目な職員で、忠実に自分の職務を実行しているだけだ。けど、俺だって嘘なんか吐いていない。
縋りたい気持ちだったが、この親切そうな駅員でも無銭乗車などさせてくれないだろう。とても説明できる出来事ではない。なにが起こっているのか理解できないが、ここに立ち尽くしていて解決できるとは思えなかった。
「あの……東京。東京駅まで行きたんだ」
「指定席と自由席のどちらになさいますか?」
駅員は、とことん通常業務として進める。軽い苛立ちとプロ意識を崩さない姿勢に対する敬意を、同時に抱いた。
「一六,三八〇円になります」
高い……。行きの交通費よりかなり値上がりしている。出費を抑えての貧乏旅行だったのに、帰りの運賃ですべてチャラになってしまった。いや、金のことは今はどうでも良い。
沖田はスマートフォンのキャッシュレス決済アプリで支払おうとして、読み取り機にかざした。
「………………」
しばらくかざしたが機器に反応はなく、支払いを済ませることができなかった。わけが分からない。先ほどのコンビニエンスストアでは対応していなかったが、交通系の電子マネーなら登録しているはずだ。
「お客様……」
「あのっ、現金でお願いします」
破けそうな勢いで財布から二万円を抜き取り、受け皿に置いた。
「現金ですか。しかも、この紙幣は……」
「?」
呟きの意味が分からなかった。駅員はお札をしげしげと眺め、一度沖田に視線を投げた。落ち着かない気分で金が乗車券に変わるのを眺めた。
「お待たせしました。こちらの画面にスマホをタッチさせて、チケットを紐付けしてください」
駅員は傍らに設置されているマルチメディア端末のモニターを指した。画面には、駅員が告げた金額とT駅から東京駅まで乗車できる旨の内容が表示されていた。
「ううっ……」
「? どうかされましたか?」
「すみません。スマホのバッテリーが切れてて使えないんだ。他の方法はありませんか?」
これまで冷静に対処してくれた駅員に、はじめて苛立ちの匂いが滲み出た。彼からすれば、沖田は明らかに迷惑な客以外の何者でもないのだろう。
「降車駅でお返し頂きますが、スマートカードの貸し出しをしております。それでよろしいですか?」
「それで乗れるんですね?」
「もちろん。ご乗車になれますし、ちゃんとホームまで行くこともできますよ」
駅員の嫌味を気にしている余裕もなかった。
「それを……頼みます」
「三百円追加になります」
「………………」
沖田はスマートカードを受け取ると、逃げ出すようにコンコースに飛び出した。
おかしい。絶対に変だ。
たった数日空けただけの我が家が恋しい。とにかく、自宅に帰りたい。自分の部屋に戻って、横になって落ち着きたい。
釣り銭を財布に戻そうとして、渡された紙幣が見たことのない貨幣だと気づいた。
「………………」
もう細かいことに構っていられない。不安に煽られて脚が止まらない。すでに入線していた列車に飛び乗った。
購入したのは自由席だったが、ほとんどが空席だった。適当に選んだ窓際の座席に乱暴に座った。嫌な汗が額から滴り、動悸が治まらない。
ブラウザアプリで、スマホ決済ができない原因を調べようとした。深い意味はない。分からないことを一つでも減らして、気分を落ち着けようとしてのことだ。しかし、ネットに繋がらなかった。弱り目に祟り目とはこのことだ。アプリの不具合ではなく、スマートフォンそのものが故障している可能性が出てきた。
「ふう……」
車窓越しの空は、昨日と変わらない。照明に邪魔されてはいるが、東京よりもずっと澄んだ星をちりばめた広大な漆黒だ。
落ち着け。混乱したまま考えを進めるな。なにかが少しずれているだけだ。危険などない。地元に戻れば、なにもかも元通りだ。
発車を告げるアナウンスが流れ、空が静かに流れた。少しの振動も感じない、滑らかな発車だった。
星が流れていく?
動いているのは星ではなく自分の方であると気づいたのは、T駅を離れてしばらく経ってからのことだった。
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