第6話 2034

 T駅前に着いた。まだ顔が熱い。この火照りは夏の暑さのせいだけではなかった。旅の恥は掻き捨てというものの、あんなに恥ずかしい思いをしたのは生まれて初めてだった。それでも、数年も経てば笑い話に熟成されるのだろうか。

 駅周辺だけあって人の往来は多かった。普段は煩わしい人の流れが、今は安心感を与えてくれている。さっきまでの闇の中の行脚が幻のように遠ざかっていく。

 今朝まで利用したリベラリズモが視界に入った。


「?…………」


 なにがどうと具体的には言えないが、出発した時とは雰囲気が違う気がした。さっきの動揺も手伝って、ひどく不安になる。たしかに地面があるのに、揺れ動く水面の上に立っているみたいに心許ない。


「とにかく、早く帰ろう……」


 ささやかな冒険は終わり、あとは電車に乗って帰るだけだ。時刻はもう午後八時近かったが、出発までには十分間に合う。旅行中はなるべく出費を抑えた貧乏旅行だったが、最後の晩くらいはご当地グルメの牛肉をメインにした晩飯を食べようと遅い時間に設定した。それがこんな形で功を奏するとは。

 仕方がない。晩飯は駅弁で済ませよう。最後はなんとなく不安定な感じになってしまったが、終わりが近づくとそれなりの寂寥感が漂う。今度旅行に出られるのはいつになるのかなどと考えてしまう。疲れが一気に体重に加わった。

 駅構内はそれほど混雑していなかった。疲労で肩が重たい今の沖田には、なにげない日常がありがたかった。

 乗車券と特急券を手に自動改札機に向かった。しかし、改札のゲートらしきものが見当たらない。沖田は再び困惑した。

 見慣れない液晶モニターが設置された通路があり、利用者はそこを通って奥へ進んでいた。乗車券やスマートフォンをかざす素振りをする者は一人もいない。


「いったい、なんなんだ?」


 来たときには、確かに改札機があった。定期券やSFカードを投入したりスマートフォンを読み取り機にかざすことでゲートが開く、ごく一般的な物だ。それなのに、今はあって当然の改札機が一台もない。沖田はその場で足止めを食らう羽目になった。


「なんだよ、もう」


 興奮を抑え、周囲を見渡す。人の往来の向こうにみどりの窓口を見つけた。知っているサービスがあるだけで安心するほど心細かった。駅員に乗車券を付き出した。


「あのっ」

「はい?」


 駅員の静かな対応に、少し落ち着きを取り戻す。


「切符を入れる改札口がないんだけど……」

「切符?」

「乗車券と特急券だよ。もたもたしてたら、発車時刻に遅れちゃうよ」

「……見せていただいてよろしいですか?」


 駅員は、まだ学生である沖田にも丁寧な対応をした。沖田の食って掛かる態度にも気を悪くした様子はない。線が細くて、筋力は沖田の方が上に見える。それなのに、対峙した場合に勝てるイメージが湧かなかった。いろんな客を相手にしていると、動じない強かさが身に付くものなのか。一人で興奮しているのが気恥ずかしくなった。

 駅員は、乗車券と特急券の両方を受け取りまじまじと見た。ただ漠然と見るのではなく、仕事に携わる職人としての観察する目だった。


「……これは、十年前の乗車券ですが?」

「はあ?」


 沖田は、空気が抜けたような声を出してしまった。

 言われたことが、とっさに理解できなかった。出発する際、往復乗車券を購入したのだ。十年前なんてあり得ない。コンビニエンスストアのおばさんといい、この町の人はなにか変だ。


「……冗談を言ってるのか?」

「お客様相手に、こんな冗談は言いません」


 沖田は駅員からひったくるように乗車券を取り、確認した。


「………………」


 間違いなく、一週間前に購入したもので有効期間内だ。この駅員は、なにを言っているのだ? 次第に怒りが込み上げてきた。自分らしくないと自覚しながらも、声を荒げるのを抑えられなかった。


「なあ、俺は疲れてるんだ。わけが分からない目にあって、脚が痛くなるくらい歩いてここまでたどり着いた。やっとシートに身を沈めてリラックスできると思ったら、あんたからわけの分からない言い掛かりを付けられてる。温厚な俺でも怒るよ?」

「そう仰っても、十年前の乗車券でお乗せすることはできません」

「これは間違いなく一週間前に購入した乗車券だっ。いいから、さっさとなんとかしろっ」

「あまり理不尽なことを要求されると、こちらとしましても警察に通報せざるを得ませんが」

「なんだとぅ……」


 なんだ? いったい、なんなんだこの駅員は? まるでこちらが無茶苦茶な文句を言っているクレーマーのような扱いをしている。


「お、俺をどうしようってんだ?」


 あまりにも不条理な状況に、沖田の自信が揺らぐ。駅員は飽くまで落ち着き払っており、その引き締まった表情は真剣そのもので、沖田の方を疑っている感さえある。

 発するべき言葉を探していると、傍らに置いてあったカレンダーが目に留まった。右上の角に太いゴシック体で2034と記されている。

 ?…… 2034……。2034年?

 あまりにも大きな衝撃を受けると時が止まったように感じるというが、まさにそれだった。時計の針も、音も、人の動きも停止してしまった中、沖田は呆然と立ち尽くした。

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