第5話 異変

 足の痛みと喉の乾きがひどかった。口の中の水分がすべて蒸発して、気管がくっついて閉じてしまったようだ。コンビニエンスストアでもあればありがたいが、自動販売機すらみつけられない。あまりの不便さに気が遠のく思いだった。

 バスで走った道を戻っているはずなのに、バス停など一つもなかった。来る際に各々のバス停の間隔が広いとは思ったが、それでも三つは経由したくらいは歩いているはずだ。これも不可解だったが、もう考えるのをやめた。エネルギーを脳よりも脚に集中させた。

 もう日はとっくに沈み、夜の帳が下りていた。都内なら太陽の代わりに街路灯が道を照らしてくれるが、ここでは闇を押し返してくれる光源が極端に少なかった。遠くに町の灯が見えるだけだ。

 暗さが不安を増長させたが、それよりも水分を補充したかった。今、ペットボトルを差し出されたら、嫌いなトマトジュースであっても一気に飲み干してしまうだろう。


「あ……」


 苛立ちが頂点に達しようとした寸前、ようやくバス停を発見した。砂漠をさまよい、オアシスをみつけた気分だった。もうとっくに最終便も出てしまっているだろうが、お構いなしに駆け寄った。少なくとも現在位置はこれで把握できる。

 喜んだのも束の間、近づくにつれおかしいことに気づいた。様式がまるで違うのだ。こっちに来てからというもの、見掛けたバス停はいずれも時刻表付き標識が立てられているだけの簡素なものだったはずなのに、見つけたバス停は屋根やベンチ、それに壁を加えた待合所を備えたもので、デザイン的にも洗練されていた。

 バス停の名前を頼りに、現在地を地図アプリで調べようとした。しかし、まだネットに繋がらない。かなり駅に近づいているはずなのに、この環境の悪さはなんとしたことか。


「地元の人はスマホを持っていないのか?」


 苛つきは修まらなかったが、萎えていた気力が漲りを取り戻した。冗談を言うくらいに気持ちも弛緩した。時刻を確認すると、あの森を出発してから三時間も経っていた。真夜中になる前に市街に戻れたことに、安堵のため息が漏れた。

 歩き続けているうちにちらほらと市街地っぽい雰囲気が満ちてきて、商店が建ち並ぶ通りまで出られた。ここまで来たら闇に怯えることもない。

 都内では見慣れないコンビニエンスストアが目に入った。『さくらんぼマート』という名前のローカルコンビニだ。

 とにかく喉が渇いていた。飲み物を購入しようと、迷わず店内に入った。軽やかなメロディが流れた。涼しい空調の風を額で受け止める。人の手で作り出された空間にいるのだと、奇妙な安心感が胸を過る。冒険は終わったのだ。

 ペットボトルのお茶を手に取った。安心した途端に空腹感が押し寄せてきたので、おにぎりも棚から掴んだ。具が辛子明太子とコンビーフマヨネーズの二つを選んだ。

 会計をしようとカウンターに向かった時、レジが無人であることに気がついた。飲み物ばかりに気を取られていたので、注意が散漫になっていた。


「田舎とはいえ不用心だな。これじゃ盗み放題だよ」


 奥に引っ込んでいるのかと思い、声を掛けようと近づいた。カウンターの前まで近づき、おかしいと思った。

 内側に人が立つためのスペースがなく、壁際に台がくっついていた。

 見たこともない造りだ。対応に困っていると、客の一人が会計を済まさずにそのまま出ていった。軽快なメロディが流れる様は、ひどく間の抜けたものに映った。

 ……万引き?

 沖田の心臓が大きく跳ねた。思った通りだ。言わんこっちゃない。こんな不用心では『どうぞお好きな商品をお好きなだけ持っていってください』と言っているようなものだ。事件の一つも起きたことがなさそうな長閑な町だろうが、奸物はどこにでもいる。知らせようにも店員はいないし、警察に通報するのは大げさなような気がした。かと言って、追い掛けて良くないと諭すのも躊躇われた。相手が危険な人物でない保証はどこにもない。

 どうすべきか逡巡していると、赤いシャツの中年男性が出ていった。やはり会計を済ましていない。先ほど同様、客を送り出すメロディが流れるだけだ。


「どういうことだよ?」


 ここに至って、沖田は一連の不自然さに疑問を持った。どんどん遠ざかる赤シャツの男は、ごく普通の歩調だった。少しも罪悪感を感じている様子はなく、スマートフォンを弄っている。

 どうにも落ち着かない気分になり、まだ店内にいた客に質してみることにした。トラブルを避けるため、あらゆる苦労を乗り越えてすっかり角が取れた感じの中年の女性を選んだ。


「あの……」


 おずおずと話し掛ける沖田に、おばさんは首を傾げながらも、愛想笑いを向けてくれた。


「みなさん、お金を払っていないようなんですけど……大丈夫なんですか?」

「え?」


 おばさんの声は怪訝さを滲ませていたが、笑顔を崩すことはなかった。お金を払っていないということより、沖田の質問そのものを不思議がっているようだ。


「支払いなら、自動精算ですてるでね?」


 訛りがすごかったが、抑揚のない、ごく自然な言い方だった。まるで小学校に入学したばかりの子供に「一足す一は二でしょ?」と優しく教えるように自然だった。


「はあ……自動、ですか……?」


 対して、沖田はテンポの悪い喋り方になってしまった。


「ほら、店内のあぢごぢにシェンサーがあんべ。あれで商品読み取って、店出る時さ精算済ましぇでけるのよ」


 シェンサー? あ、センサーか……。


「あー……なるほど……」


 納得すると入れ替えに、新たな疑問が生じた。コンビニエンスストアの無人化が進められていることは、沖田も知っていた。それにしても、こんな地方で実践されているとは驚きだ。東京より全然進んでいるではないか。それとも、データを集めるテストケースの店舗に偶々入ってしまったのだろうか。


「なんか……未来的ですね」


 素直な感想を口にしたが、おばさんは質問された時以上に眉根を寄せた。


「おめ、どごがら来だの?」

「……東京ですけど」

「やだ。からがわれでるのがすら。東京だら、もう無人のお店なんて当だり前なんでねの?」


 いちいち標準語に変換しなければならない煩わしさはあるが、聞き取れないほどではない。父の母、つまり沖田の祖母は、目の前のおばさんよりも訛りが凄まじく、同じ日本語なのかと思うほど言葉が通じなかった。


「まさか。そこまで進んでませんよ。まだ数店舗あるだけで……」

「嘘よぉ」


 おばさんは、大げさに仰け反った。


「こごでさえ、もうほどんどが無人店舗なんだがら。東京が数店舗すかねなんて、あるわげねでね」

「いや、でも……」


 それまで愛想よく相手してくれていたおばさんだったが、沖田の戸惑った様子にただならぬものを感じたのか、笑顔が薄くなった。


「とにがぐ、おめのも精算されっから、安心すてね」


 あまり長居したら厄介事に巻き込まれるとでも思ったのか、おばさんは足早に出ていってしまった。先の二人が出て行った時と同様、軽やかなメロディが流れる。

 気持ちが良かった店内の空調が、今では肌寒く感じた。汗が冷えたのとは別に、背中に氷を落とされたような、頭が痺れる悪寒だった。

 とにかく会計を済ませて早く出ようと出入り口を目指した。あのおばさんが言った通りなら、そのまま出られるはずだ。それなのに、沖田が通過する時にはゲートが閉まり、耳障りな警告音のようなものが店内に流れた。

 焦った。焦りのあまり顔が火照って、全身が熱くなった。自分が使っているスマートフォンには自動精算に対応するアプリが入っていなかった。

 瞬時に注目が集まった。一様に希少動物を眺める好奇心に満ちた目で、口元にあからさまな侮蔑を浮かべている者までいた。沖田は持っていたお茶とおにぎりを元の棚に戻して、急いで店舗を出た。

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