第4話 眩惑

 屈む必要はなかったが、それでも圧迫感のある隧道を、転ばないようにゆっくりと進んだ。前方にあった光の輪郭はすぐに沖田の目の前まで接近し、ささやかな冒険が終わることを知らせた。胸に広がるくすぐったさに、思っていた以上に緊張していたことを知る。

 隧道から出ると瞬時に熱気に包まれ、喧しい蝉の声が耳を劈いた。

 そこは、沖田が洞窟に入ったのと同じ場所だった。落石注意の看板があった。だが、なにか違和感を感じた。さっき見た標識であることに間違いないのだが、なんというか、風化の度合いが進んでいる。錆びている範囲が広がっているように見えたし、塗装もより薄くなっている。それ以上に感じた違和感は、設置されているというより放置され打ち捨てられたように映ったことだ。


「………………」


 少し間を置いてから、それが不自然であると気づいた。洞窟は歪ではあったがほぼ直線だった。一方向に進んだのに、どうして元の場所に戻るんだ?

 周囲を見渡すが、先ほどの老人はもういなかった。蝉の声が、より大きく聞こえた。

 暗闇で方向感覚がおかしくなって、実はUの字になっている洞窟だったとか……。いや、それなら奥に見えた日の光はどう説明する?

 念のために、近くにあるであろうもう一つの洞口を探した。左右にそれぞれ三十メートルほど歩いてみたが、開いている穴は、沖田が出てきた一つだけだった。


「いったい、どうなっているんだ?」


 わけが分からなかった。振り向いて、出てきたばかりの洞窟を覗こうとした。スマートフォンのライトが点けっぱなしなっているのに気づき、消そうとパネルをタップした。


「え?」


 時刻が午後四時を過ぎている。洞窟の不可思議さに注意を惹きつけられていたから気づかなかったが、太陽がかなり西に傾いている。


「なんで? ここに着いたのは昼前のはずだぞ」


 奇妙なことの連続だったが、いつまでも留まってはいられない。現実的な問題を回避すべく、急いでバス停に向かった。バスは一時間に一本だ。しかも、それは午後四時台までのことで、次のを逃したら翌朝までなかったはずだ。

 引っ込んでいた汗があっという間に噴き出した。息を切らしながらバス停を探した。汗で目が痛くなり、苛立ちと共に憤りが込み上げてきた。


「なんでバス停がないんだよ?」


 見逃して通り過ぎてしまったのか。その考えは即座に退けた。こんななにもない一本道では、見逃す方が難しい。では進む方向を間違えて、バス停がある方と反対側を走ってきたのか。その可能性もない。なぜなら、バスの座席から眺めた景色から、一際高い山が見えた。名も知れぬ山であるが、あれを目印にしている限り、方向も正しいはずだ。


「どうなってるんだよっ?」


 不可解なことの多発に、沖田から穏やかさが逃げていった。興奮して荒ぶってしまい、自分の怒声が森に吸い込まれるのを聞いた。

 ここまで来て引き返す気にはなれない。誰かに尋ねようにも、自分しかいない。先ほどの老人はどこに行ったのかと目を細めたが、やはり影も形もみつけられなかった。


「落ち着け……。遭難したわけじゃない」


 沖田は自分に言い聞かせると、呼吸を整えた。とにかく、来た道を戻れば良いのだ。


「地図……」


 地図アプリで現在位置を確認しようとスマートフォンを操作したが、一向にネットに繋がらなかった。苛立ちが増して心が焦れる。


「……とにかく、バス停をみつけるんだ。待たずに済むなら乗って帰ろう。ダメだったら……。なに、歩いてだって帰れるさ」


 困惑したが思考は停止しなかった。パニックに陥るほどの事態ではない。きっとトンネルを抜けて反対側に出たのだ。目にした標識は、似ていただけで違うものだったのだ。進むべき方向を間違えるのはまずい。あの山を目印にするのだ。考えを整理して、沖田は熱気が滞った森の中を再び歩き始めた。

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