第3話 洞口
ひどく古びた標識で、塗装がはげて所々に錆が浮いている。縁が顕著で、まるでべっこう猫みたいに黒と茶色で複雑な模様で汚れていた。
何気なく視線を横に向けると、漆黒の空洞が飛び込んだ。切り立った岩肌が割れた感じで、手つかずのまま太古より放置されていたのではないかと思わせるほど、控えめだった。大人一人が入れるほどの大きさしかない。それでも黒々とした洞口は、たしかな存在を主張している。
「……洞窟?」
周囲には誰もいない。歩行者はもちろん、車の一台も走っていなかった。暑さに意識が朦朧としていたせいか、視界の範囲には自分以外に誰もいないことに今はじめて気がついた。日中なのに人っ子一人いないなんて、東京都内で暮らしている沖田には、奇異以外の何ものでもなかった。蝉の声が殊更耳に流れ込んでくる。
不安から逃れる気持ちと好奇心を綯い交ぜになる。首を伸ばして洞窟の中を覗き見た。空気が冷えていて、顔に纏わり付いていた汗はべたつきだけを残してさっと退いた。空調が効いた喫茶店に頭だけ突っ込んだみたいだ。
まるで、煌々と照っていた照明をいきなり切られたようになにも見えなくなった。スマートフォンのライトを点けたが、見えるのは二~三メートル先が限界で、奥の様子は確認できなかった。
なだらかな斜面にぽっかりと口を開けており、入り口を境に緩やかな下り坂になっていた。奥から低い唸り声のような音が迫り上がってきた。思わず息を止める。
改めて、洞口を観察した。立ち入り禁止の看板の類いは見当たらない。
「………………」
旅先での特別感に触れた感覚があった。日常から脱出するための旅行じゃないかと、自分に対する意地もあった。とにかく引き返そうという発想はなく、周囲に誰もいないのも沖田を大胆にさせた。操られるように一歩踏み出した。
「入るのかい?」
「っ!?」
本当に、真剣に、マジにびっくりした。心臓が跳ね上がって、体まで浮きそうになった。
「あ……入っちゃまずい、ですか?」
かっと顔が火照った。悪戯をみつかった子供のように、バツが悪かった。落ち着かなる一方、人がいたことに疑問を感じた。洞窟に入るところを見られないか、十分に注意していたはずだ。
その人物は、一見して不思議な雰囲気を纏っていた。小さい体は白い衣装で覆われ、顔は皺だらけなので高齢者には間違いないが、性別の区別を分からなくさせていた。声もしゃがれており、やはり男なのか女なのか判然としない。もう何年もずっと動かずに佇んでいると言われても、信じてしまいそうなほど背景と同化している。
町中で見掛けたら間違いなく近づきたくないと思うだろうが、不思議とこの森には相応しいと感じられた。
「立ち入り禁止になってなかったみたいなんで、好奇心を刺激されて……」
その人物は、沖田の言い訳じみた説明にも黙っていた。じっと沖田を見つめている。怒っている様子はないが、凝視されて居心地が悪くなる。とにかく、なにか喋らなくては間が持たない窮屈さに、沖田は知ったところでどうでも良いことを尋ねた。
「……あの、地元の人ですか?」
「そちらから入る者は、珍しいな」
口調は飽くまで穏やかだ。沖田の質問を無視して、まったく違うことを喋り始めた。
「昔に戻れば現在を変えることも可能かも知れんが、先を見たところでどうすることもできまい」
「……いきなり、なんの話ですか?」
「温故知新という言葉もある。人というものは、過去を学んで未来を開拓するもんだ。ここは、そういう場所だ」
「だから、なんの……」
もしかして、ただの痴呆老人だろうかと声に苛つきを滲ませたが、昨夜インターネットで読んだ、この地にまつわる伝説を思い出した。そして、自分はそれをこそ求めて、汗だくになりながら彷徨い歩いたことも。
「もしかして、時越えの話をしているのですか?」
「入るのか?」
またもや、沖田の質問は無視された。どうやらまともな会話は諦めた方が良さそうだ。むこうが蔑ろにするのなら、律儀に相手する必要なんかない。意地の悪い考えが首をもたげ、沖田も老人の問いを無視した。
「中は危険なのかな……」
「なだらかな坂になっているだけだ。危険などない」
質問には答えなかったくせに、独り言には反応する。ちぐはぐな反応に、やはり少し惚けているのかと考えた。
「……じゃあ、大丈夫なんですね?」
「中に危険はないが、向こう側は保証できんよ」
「向こう側? どこかに繋がっているんですか?」
「入るのか? そっちから入る者は珍しい」
ここにきて、沖田は老人に対して不気味さを感じ始めた。
薄気味悪いじじい……いや、ばばあか? ひょっとして、からかわれているのか? 沖田の胸に青白い火が点いた。
実は地元の人なら子供でも入る浅い洞窟なのに、沖田が躊躇しているのを見て煽っているだけなのか。ほんのちょっとの自然にすら触れられない都会人を、嘲笑しているのか。
沖田の幼稚ともいえる矜持が、闇への怖れを振り払った。
スマートフォンのライトを点けたままで、洞窟の中に身を滑り込ませた。途端に、ひんやりとした空気に肌を刺された。首筋に水滴を垂らされたみたいに、全身に鳥肌が立つ。それでも引き返そうと思わなかったのは、意地もあったが前方に小さな光が見えたからだ。人工的な照明の尖った光ではなく、空から降り注ぐ柔らかな日光の支流だ。
「……なんだ。洞窟というより、自然のトンネルじゃないか。しかも、ものすごく短いトンネルだ」
やはり、からかわれたのか。洞口に立っていた老人に怒りを覚える。不思議なことに、わずかとはいえ会話を交わした老人の容貌を、どうしても頭に描くことができなかった。
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