第2話 時越えの森

 蝉が喧しかった。夏の日差しよりも強烈な音の暴力は圧倒的で、恐怖心さえ呼び起こすほどの轟音に、沖田は耳を聾された。

 思いきって北海道に行けば良かったかな……。

 沖田が学生時代最後の旅行先にY県を選んだのに、深い理由はなかった。父が生まれ育った地で、幼少の頃は夏休みに毎年連れてこられた。何度も訪れた馴染みの土地という安心感から、単純に一人旅の舞台に選んだに過ぎない。

 沖田は高校三年生で、来年には卒業する。大学に進学するつもりはなかった。出世には疎い性格も相まって、早く社会に出て揉まれた方が利になると考えての決断だった。

 今の世の中、学歴にさほどの意味があるとは思えない。金の稼ぎ方が多様化して、高卒だろうと中卒だろうと、知恵と行動力を駆使して稼いでる人がたくさんいる。

 ……これには少しばかり建前が含まれている。

 本音を言えば世間と隔たりたい。これが一番重要だった。社会的地位や名声なんかには興味はない。できれば、あまり人と関わらない仕事で生計を立てたい。人間関係に煩わされることがなければ、少しくらい節約が必要な人生でも満足できる。たとえば、どこか地方の土地を購入して、程々の農作物を収穫して売る生活でも良いし、インターネットを介してできる仕事でも良い。とにかく、一人でいる時が一番落ち着ける性分なのだ。

 今回の夏休みを利用しての旅行は、なにもせずとも呑気に暮らせる学生のうちに思い出を作っておこうと思い立ったものだ。これまでしたことのない一人旅をして、人生を振り返った時に懐かしめる記憶を脳に刻んでおきたかった。

 誰にも煩わされることのない一人旅は快適だった。誰に断る必要もなく行きたい場所に行き、食べたい物を食べた。行く手を阻む者がいない大草原を歩いているような爽快感に酔い痴れる。やはり自分は一人が性に合っていると再認識する旅だった。

 ただ、最初のうちこそ高揚感で浮かれていたが、二日目、三日目になると感動の度合いが薄まっていった。なにしろ、一人旅といっても父に連れられて巡った観光地をなぞるだけなので、今一つドラマ性に欠けた旅程になってしまっていた。知らぬ土地に未体験との遭遇こそが旅の醍醐味なのに、自ら安全で刺激のないルートを選んでしまった。これでは、近所をぶらりと散歩しているのと大して変わらないではないか。日常の冷静さを取り戻しつつある沖田は、自分の決断の小ささに歯噛みする思いだった。

 冒険のない旅行は、この先の生き方に不安を覚えさせた。自分は縮こまった性格で、思い切った決断ができなかったり、いざという時に機を逃してしまうのではないか。学歴なんかに縛られまいと粋がっていても、社会のルールや慣例に飲み込まれて平々凡々な人生で終わってしまうのではないだろうか。

 これまで何度も見掛けている大人。公園のベンチに座っているくたびれきったスーツ姿の大人。満員電車の中で、人の迷惑も顧みずなにかに急き立てられるようにスマートフォンのゲームアプリに勤しむ大人。死人のような目が脳裏を横切り、未来の自分を重ねて心が軋んだ。

 このまま退屈な旅で終わらせてなるものかと奮起したのが昨夜だ。明日の行程こそが自分の将来を占うターニングポイントなのだと、理屈のない根拠に意気高揚した。

 今日が旅行の最終日となるが、宿泊は毎晩インターネットカフェを利用していた。旅費の節約のためだったが、行く先々で情報収集するのに、備え付けのパソコンは大いに役立っている。沖田はスマートフォンの操作よりもキーボードを打つ方が得意だった。

 昨夜も情報を掻き集めたところ、『土岐越えの森』なる名称が飛び込んできた。

 そこはS村の外れに位置していた。沖田が一度も行ったことのない場所だ。件の森はその土地に伝わる伝説が名称の由来というだけで、観光地になっていない点も気に入った。

 伝説は、戦国時代の物語だった。戦から逃げ出した男の物語だった。妻を残して戦に駆り出された男が九死に一生を得た。土岐越えの森から過去に旅立ち、妻を連れて逃げ出して現在に戻ったところ、まったく違った人生が待っていたというものだ。


「戦国時代にタイムスリップか……」


 おそらく、『時越え』が時代の移り変わりに伴って『土岐越え』に変化したのだろう。地図を確認すると、すぐ近くには切り立った断崖や急斜面が存在している。それとも、土岐と時の語呂合わせから、タイムスリップのお話が作られたか……。

 タイムスリップのお話は世界各地にあり、それほど珍しいものでもない。妙に納得させられるストーリーで構成された物語もあるが、現代に至るも時間旅行を実現させたニュースなどない。つまり、タイムスリップなど与太話に過ぎないのだ。あらゆる人が抱く憧憬が荒唐無稽な伝説を作り上げたのだ。戦に明け暮れていた時代ともなれば、過去に戻ってやり直したいと願う人はごまんといただろう。いや、それは現代でも同じか。

 嘲笑の気持ちはあるが、同時に興味が刺激されたのも事実だ。旅に浪漫を盛り込めそうだと、バスに揺られること一時間も掛けて、こんな辺鄙な場所までやって来たのだ。

 今朝まで身を寄せていたリベラリズモの冷房が、早くも慕わしい。俺はなんだって、あんなに素晴らしい環境を捨てて、こんな暑苦しい場所に来てしまったのかと、見当違いな憤りを感じた。

 マップサイトを見ながら計算したら、バス停から五分程度で着くはずなのに、歩き始めてもう二十分は経過している。呼吸に熱が帯びてくる。自分の息が鬱陶しくなる。

 沖田は暑いのが苦手で、四季のうち夏だけはいらないと常々思っていた。木漏れ日とはいえ容赦なく降り注ぐ日光と、豪雨を彷彿とさせる蝉の大合唱。肌にまとわりつくシャツは気に障り、額から滴り落ちる大量の汗が目に染みて痛い。

 たかが旅行とこれからの人生を重ねるなんて、深刻に考えすぎた。思い出作りなんて投げ出して、市街地まで戻ろうかと思い始めた時、目の前に落石注意の標識が飛び込んだ。

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