キスと煙草とロックンロール 彼女は俺の前でだけアイドルをやめる

棗ナツ(なつめなつ)

本編『不革命前夜』

「やあ、少年」

金曜から日付をまたいで、夜風が優しく吹き付ける東京。

川のせせらぎが夜空に響く丑三つ時。

満月に照らされた、家から少し離れた河川敷。

誰もいない世界には、妖精のように佇むひとりの女性が待ち構えている。

妖精には似つかわしくない煙草を咥えた彼女は、ミリ単位で動く星空を傍観しながら、いつものように俺を呼んでいた。

「いきなり『今から会いたい』なんて、俺が起きてなかったらどうするつもりだったんですか」

ニヒルに微笑む声の主に、俺はとりあえず文句を返しながら、彼女の隣に座る。

「仕事は平日に終わらせる主義の君なら、休前日は夜更かしをしているだろうと思ってさ」

彼女の俺のことを見透かしているような声色は、どことなくこそばゆい。

「まるで俺のことを全部知っているかのような口振りですね」

「君が一番あたしのことを知っているのと同じように、あたしも君のことを知ってる」

「それなら、俺が合コンする度に毎回電話掛けてくるのやめてください。知らない人の前で、電話相手があの月野かぐやってバレたらマズいでしょう」

「でも自分でそう言う割には、毎回陽向君はあたしの所に来てくれるよね」

「知らない女性と知ってる那月さんを天秤にかけた結果、那月さんを優先しただけです。他意はありません」

「本当にツンデレだね、君は」

そう言って金髪ショートのお姉さんは、俺の頭を撫でる。

「何にも染まってなくて可愛い」

「子供扱いしないでください。貴女のほうが何倍も可愛いと思います」

「うっさい。あたしは美人って言われたほうが嬉しいの」

「じゃあ美人」

「言えばいいってもんじゃない」

呆れた彼女は大きなため息をついて、俺にAirPodsの片割れを渡してくる。

「ほら、BGMだよ。今日みたいな夜には合うかもしれないね」

左に立つ彼女からそれを受け取り、俺は右耳にイヤホンを嵌める。

お互いの声が届くように、相手とは逆側に嵌めるのがふたりのルールだ。

流れてくるのは、NEEの『不革命前夜』。

「なんで俺らってこんなに音楽の趣味合うんでしょうね」

「さあね。前世で夫婦だったりして」

「俺は前世と来世は信じない主義なんで」

「じゃあ運命の相手」

「運命なんてものはまやかしに過ぎません」

「つれないなぁ」

彼女が尖った口から吐き出す煙は夜空に溶け、なんとなく天まで届く気になってくる。

俺はその佇まいに見惚れて、整った細い唇を眺めていた。

「今日は吸いたい気分なの?」

「……まぁ、正直」

「そっか。あたしは一緒に吸いたかったよ。だから呼んだんだ」

その言葉が何を意味しているかお互い分かっているから、ふたりとも少し気恥ずかしくなる。

目を逸らす俺に、彼女は自分の吸いかけの煙草を渡す。

「はい。もう間接キスなんて気にしないでしょ」

赤いリップに染まった白い煙草に、思わず鼓動が速くなる。

俺はそれを隠すように、精いっぱい強がる。

「当然です。那月さんのことは誰より知ってるつもりなんで」

そんな俺に、彼女は優しく微笑む。

さながら、ステージ上にいる彼女のように。

「うん。その言葉が一番嬉しい」

いつも適当に受け流す彼女だが、今日は少し素直なようだ。

「なんだか今日の那月さんはデレ強めですね」

「ちょっと今日の陽向君はツン強めじゃない?」

「人生経験の差が出ましたね」

そう胸を張る俺に、彼女は口をとがらせ、張り合ってくる。

「日常的に人の生死に関わってる人間に、人生経験で勝とうとでも思ってるのかな?」

にやりと笑う金髪ショートの美人に、その纏いし非現実感に、思わず息を呑む。

「俺だって、未来ある少年少女を導いてるんですよ。その尊さったら那月さんの比じゃないですね」

誇らしくイキってみた俺の主張だが、彼女の煙草の煙のように掻き消された。

「墓穴を掘ったね。その観点でいえば、世間一般を明るく導くアイドルに勝てる人間なんていないでしょうよ」

得意げな彼女は、右耳を彩るピアスを照らす満月のように、儚く美しく感じられて。

「反論あるかな?陽向君」

論破された形の俺は、またいつもの如く白旗を上げ、わざとらしく両手を掲げる。

「あー負けでいいです。人気アイドルの月野かぐや様に勝とうと思うほうが間違いですよ」

諦めたように敗北宣言をする俺に、超人気アイドル月野かぐや―――その正体である藤原那月さんは、首元のタトゥーをちらつかせながら、誇らしげに言う。

「そりゃそう。あたしは最強のアイドルなんだ。誰にも負けることなんてないさ」


月野かぐや。身長162cm。

アイドルブームが下火になりつつあるなか、1年ほど前に彗星の如く現れたスター。

太陽のような笑顔、青空のような透明感、満月のような安心感。

鳥のさえずりのように聴覚を包み込む歌声、満開の桜のように視覚に残るビジュアル。

黒髪ロングの髪に清楚系のメイクで、誰にでも好かれるトップアイドル。

一つだけあれば十分な要素を数多く持ち、そのどれもが人々の心を魅了した。

それでいてメディア露出やプライベートの公開を抑え、年齢や素性を明かさないことで謎めいた雰囲気も醸し出す。

テレビに出ればSNSでトレンド入りし、YouTubeでゲリラライブを行えば新聞の一面を飾る。

人前に出る頻度にムラがあるせいで、彼女の次回出現を考察する勢力まで現れるほど。

誰が言い出したか、人呼んで『月の妖精』。


そんな彼女だが、その本名を知る者は殆どいない。

それどころか、プライベートでの目撃報告すら皆無。

週刊誌やネットライターもお手上げ、取材も行わないほど。

街中でその理由が様々考察され、「本当に月から来た」「バーチャルな存在」などと好き放題言われている始末。


それもそのはず、彼女の正体である藤原那月は、月野かぐやとは真逆のような存在なのだ。

髪を金に染め、

派手なメイクと服装で、

首と肩のタトゥーを出しつつ、

両耳合わせて十数個のピアスをし、

強めの香水をつけ、

紙巻きタバコを吸いながら、

ドライな口調で毒を吐き、

邦ロックを聴き漁る。

それらの特徴は、月野かぐやガチ恋勢が見たら卒倒しそうな本性の数々。

それをウィッグやメイク技術などを駆使してうまいこと隠しながら、那月さんはアイドルかぐやとして邁進しているのだ。


そして、そんな彼女の本性を初めて知った一般人こそ、この俺、高校教師2年目の瀬尾陽向24歳である。担当教科は化学。

去年のクリスマスイブの夜、とあるきっかけで那月さんが月野かぐやであることを知り、それ以降半年にわたって関係が続いている。


…………関係といっても、端的に言えば「都合のいい」関係なんだが。



 ◇



「なんのつもり?」

ちくたくと動く時計の針が、午前3時を指す。

先程まで俺達を照らしていた満月は、今ではレースのカーテンに遮られ、光だけを届ける。

「―――なんて、もうあたし達には要らない質問だよね」

重ねた唇を離し、純白のシーツの上で微笑む彼女は、俺の顔を両手で包み込む。

彼女から香る季節外れの金木犀の匂いが、どうしようもない切なさを伝えてくる。

「だって、さっきお互い確認したもん」

そんな彼女の黒に染まったブラ紐と首元のタトゥーが、白い肌とシーツに映えている。

それはまるで、彼女の二面性を示しているようで。

それでいて、笑う彼女が抱えた暗闇を暗示しているように思えた。

「一緒に煙草吸いたい、って」

俺は、何も言えなくなる。

俺は、言葉を紡げなくなる。

普段太陽として振る舞っている那月さんの、俺だけが知っている月としての姿に、また見惚れる。

微かに残る煙草の匂い、金木犀の香水、そして俺から香るミントの香水が重なり合う。

「那月さん、俺も―――」

それは、津波のように大きな渦となって、振り下ろされるような拳のように強い力で、俺達を引き摺り込む。

「―――俺も、貴女と一緒になりたいです」

そうしてまた唇を奪う。

「………んんっ…………」

身体を重ね、抱きしめ合う。

「ねぇ陽向」

「なんですか?」

「今日は、いつも以上に愛してね」

「…………お互い、ですよ?」

そうして、孤独ではないことを実感しながら、俺達はひとつの淡い夢へと堕ちていく。



河川敷で言い合った、一緒に吸いたい、という言葉。

それは何の変哲もない会話でしかないが、俺達の中ではひとつの共通認識となっていた。

すなわち―――今日はしたい、という意味。


俺達は、お互いの体温で、お互いに繋がることで、どうしようもない孤独を埋めあっている。

明日も見えない世界で、夢を見せ合っている。


彼女が抱えている闇を察することはできるが、俺は深く立ち入らない。

彼女が時々流す涙を、

他人の評価に怯えていることを、

左腕に残るリストカットの痕を、

俺は知っているが、その深い傷の訳を知らないふりをして、彼女を癒す。


同じように、彼女も俺の抱えている傷には深く立ち入らない。

俺が時々吐く溜息を、

他人の愛情に飢えていることを、

右腕に残る数々の痣を、

彼女はきっと知っているが、その理由を聞くことはしないで、俺を癒す。



那月さんは、絶対に「愛してる」 と言わない。

アイドルとして、月野かぐやとしてステージに立つときも、その言葉だけは使わない。

それは素の状態でも変わらなかった。

どんなに昂ぶろうと、リピドーを感じようと、こちらからお願いしたとしても。

俺を呼び捨てにしたり、「大好き」といった他の表現を使うことはあっても、決してその言葉を使わない。

その理由を知りたいと思うことは何度もあった。

けれど、俺はもう気にしないことにした。

本当の愛なんて、どうせみんな知らないんだから。


現役大人気アイドルとの、不可思議な関係。

俺だって、付き合えるものなら付き合いたいと思うことはある。長い時間をかけて思い出を作り、告白し、結ばれたいと思ったこともある。


けれど、俺はそれよりも、今すぐに彼女の孤独を埋めることを選んだ。

そして、今すぐに那月さんに孤独を埋めてもらうことを選んだ。



だから俺は、都合の良い関係のままを続ける。

2人で煙草を吸って、ロックを聴いて、孤独を埋め合って、寄り添うことを続ける。


キスと煙草とロックンロール。

今はこれだけあればいい。



「ねえ、夜が明けたよ」

全てが終わったあと、那月さんはカーテンを開け、ベランダに出る。

朝焼けの街が、やけに眩しく見える。

「あたし達、今日も生きてるね」

彼女は煙草に火をつけて、その街を煙で彩っていく。

「クソッタレな世界なんて、あたしが全部明るく照らしてやるんだ」

そして彼女はそう言って、今日も前を向く。

「那月さん、まるで革命家みたいですね」

「実際そうかもね」

軽口を叩く俺の口は、那月さんの唇で塞がれる。

俺はその安寧に、また身を委ねる。


革命前夜のキスは、重めの煙草の味がした。

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