11.

ようやく血液が正常に体内を循環し始め、視界も開けてきた。

が、目を閉じると、奴の顔が鮮明に思い出される。

深呼吸を続ける。

また血の気が引いていく感覚が、、、、、

外からヤツの声が聞こえてくる。

逃げ場がない。こんな密室にいたらまた襲われてしまう。ヤツの指示で動いた社員に連れて来られたこの会議室。ヤツが来るのは時間の問題だろう。

カシャ

完全に全身から血の気が引いていく。

ヤツの足音が近づいてくる。

視界が狭まっていく。

隣の椅子に腰かける音がし、ヤツ独特の香水の匂いが鼻孔に侵入してくる。

僅かな視界にヤツが入り込んでくるのが恐ろしく、俺は自ら目を閉じた。

「大丈夫だ。私だよ」

体の奥底に意識が引きずり込まれていく。

またしてもヤツの生暖かい感触が手を覆う。

昨日の記憶と感触が映像とともに脳内に蘇り、何とか消そうと瞼に思いっきり力を入れる。

「すまない。後もう少しのところで全てが丸く収まりそうだったのだが、邪魔が入ってしまった。一旦荒田君にも自宅待機をしてもらうことになってしまった。でも心配するな。私が君を守る。絶対に刑務所なんかには行かせないよ。ね?」

ヤツの生暖かい息が近づいてくる。

そしてヤツの生暖かく濡れた舌が俺の唇を下から上に舐め上げた。

瞼の裏に大量の涙が溜まってきている。

「おっといかんいかん。これこそ見られたら一巻の終わりだな。今日はここまでにしておくこととするか」

呼吸が小刻みになり、口元が震え始める。

「それじゃあ、君はもう上がってくれ。本当は私が家まで送りたいのだが、さすがにこの状況で席を外す訳にはいかないからね。私の荒田家訪問も次までお預けとしよう。それじゃあ、また連絡するからね」

ヤツが立ち上がり、遠のいたかと思った瞬間、生暖かくベチョベチョしたものが俺の唇を覆い、大量の唾液と吐息が俺の唇の周りにぶちまけられた。

思いっきり歯を食いしばり、崩壊しそうな精神をなんとか持ちこたえさせた。

唇が解放されると、

「いやあ~、これだけは我慢できんかったよ~。それじゃあまた」

今度こそ足音が遠のいていき、ドアの開閉音が聞こえた。

会議室内に静寂が戻った。

目を開くと、床に大量の涙がこぼれ落ちた。


トントントン

カシャ

「あの、すみません、ここ次会議で使うんで」

どれほどの時間が経ったのだろう。

血流が正常に戻り、視界も回復したものの、全くもって体が動かない。

「あの、すみません、会議始めたいので」

遠くの方で声が聞こえてくる。俺に言っているのだろうか。

「あの!話しかけてるんですよ!?」

声がすぐそばから聞こえる。

未だに体は微動だにしない。

「ちょっと」

力強い手が俺の肩を強く握ってくる。ヤツのものではないことが直感で分かった。

瞬時に全身に力が入り、俺はその手の主を見上げた。

「移動してもらっていいっすか」

ガタイのいい男性社員が血走った目で俺を睨みつけていた。俺は思いっきり反対方向に身を寄せてそいつの手を振り切ってから立ち上がった。男性社員の後ろに男女合計4人が立っていた。全員が不快な表情で俺を睨みつけている。今すぐ死ねと言われているようで、見えない圧に潰されてしまいそうだ。俺は慎重に息を整え、全身にありったけの力を込めた。

「あああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

4人の圧をなんとか押し返しながら俺は会議室を駆け抜けていった。

そしてそのまま自席に行って鞄を取ると、全速力でエレベーターホールに向かった。

あいにくエレベーターホールには何人かの社員がいた。一緒にエレベーターなんかに乗ったら何を言われるか分からない。俺はその奥にある階段まで走り、逃げるように二階分の階段を駆け下りた。


自動ドアが開き、外の空気が鼻孔、耳穴に入って来る。

俺は大きく深呼吸をした。

これまでの一連の流れが脳内で蘇ってくる。

考えたくもない。何もかも消したい。

何もかもいらない。

無になりたい。

完全なる無になりたい。

車の走行音が大量に聞こえてくる。

その中に楽しそうに笑い合う男女の声、猫なで声でスマホに話しかけている女の声、身を寄せ合う男女の息遣いが混ざって聞こえてくる。

はー。

いくら息を吐き出しても、ずっと心臓の辺りでつっかえているものが出てこない。

さっき柏田をぶん殴った時に少しは出たかな。

でもまだまだ残っている。

心の端に引っかかって、ずっと胸に不快感がある。

俺にはやらないといけないことがある。


昼間のオフィス街。

仕事の合間に愛なりなんなりを確かめ合う男女たちに一人囲まれながら思い出した。

いや、ただ連日無能のレッテルを貼り付けられる中で自ら諦めていただけなのかもしれない。

自然界にはオスとメスしか存在しない。

オスの生きる目的はただ1つ。

最高のメスと一緒になること。

俺はオスだ。

そして俺にとっての最高のメスは望月さんだ。

望月さんと一緒になれない限り、俺の生きる目的は永久に達成されない。

これまで俺は手段を選び過ぎていたのかもしれない。今朝の望月さんと柏田を見ている限り、望月さんは柏田の強引で身勝手なアプローチに陥落したらしい。喉の奥から憎しみが込み上げてくるが、もう既に変えられない事実となってしまっている。俺はこれまでいつも望月さんを気遣ってコミュニケーションを取ってきた。しかしそれを毎度のように無下にされてきた。そして結局望月さんは強引で無神経に関わってきた柏田を選んだ。信じられないことに、レイプされた後にもそれは変わっていないようだ。ならば、もう手段を選んでいる場合じゃない。望月さんへの気遣いなんてクソ喰らえだ。これからは俺が思った通りに行動する。もし仮にそれが望月さんを傷つけることになったとしても。

俺は足早に歩き始めた。道路の前で立ち止まり、通りかかったタクシーに向かって手をあげた。俺には奥の手がある。望月さんの住所を知っているのだ。望月さんの入社から数カ月経ち、俺に対する柏田の態度が悪化の一途を辿っていた頃、使う日が来ないと思いながらも人事情報から望月さんの住所を確認したのだ。何らかの理由で望月さんが異動なり転勤なりになった際に、また柏田からのアプローチが過激化した時用に確認しておいたのだ。京香の住所はスマホの中にメモとして残っている。まさか使う日が来るとは思わなかった。

タクシーが目の前に止まり、俺は乗り込むなり運転手に望月さんの住所を伝えた。

元々の騒動を起こした柏田を殴った俺が自宅待機になり、元々の騒動を起こした柏田と一緒にいた望月さんが通常勤務に戻れるはずがない。ここで何が何でも京香を俺の女にしてやる。昨日からの一連の騒動を受け、ハッキリ言って俺の人生は終わったも同然なのだから。

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