5.

会社の入口に着いて早々、家に帰りたくなる。いつものことではあるが、今日はそのレベルが違う。昨日のことを思い出すと足元から崩れ落ちそうになる。昨日、俺は自分の力を完全に侵害された。奪われたのではない。勝手に侵入され、元々あった力の代わりに毒を体内に埋め込まれたのだ。奪われただけであれば、体内には何も残らない。あるとしても奪われた喪失感くらいだ。喪失感は体、ましてや心を蝕まない。体、そして心を蝕むのは、自分の心と体の安全を害する行為を、止めることが出来なかったという圧倒的な無力感である。昨日は無力感という言葉で全身が覆いつくされるような体験だった。そして今日出社できた理由はただ1つ、そうしなければさらなる無力感を味わうことになるからだ。引き返そうとする自分を抑え込み、拳を強く握りしめながら、歩を前に進めた。


執務室まで上がり、自分の島まで歩いて行く。

いつも通り俺以外はもうほとんど席に着いている。

「おはようございます」

力いっぱい声を出す。

パソコンのカタカタ音だけが返ってくる。

いつものことだ。諦めて席に着く。

「おい荒田!」

体が完全に固まってしまう。

頼むからもう勘弁してくれ。俺がお前あなたに何をしたって言うんだ。

体が前を向いたまま全くもって動かない。

「おい荒田コラァ!」

柏田の語気が強まっていく。

「シカトこいてんじゃねーぞコラァ!挨拶しろ!挨拶を!」

手が震え出す。

「あの、呼ばれてますよ?」

横から望月さんの声。

「アラタァァァ!!!」

さらなる柏田の怒号。

「柏田!」

・・・・・

全身から血の気が引いていく、、、、、、、

ヤツの声だ、、、、、、

昨日の感覚が全身に蘇り、視界が狭まっていく、、、、、、、

「テメェもシカトかゴラァ!」

「っあ、す、すみません、、、、、」

声だけが聞こえてくる、、、、、、

「こっち向けっつってんだぁよ!」

「、、、、、はい、、、、、」

「随分声が小せーな。腹から声出せ!」

「っはい!」

「小せえよ!」

「はい!」

「小せえよ!!」

「はい!!はい!!はーい!!!」

「テメェ部下指導にも程があるぞ。テメェがやってんのは完全なるハラスメントだ。ただでおくと思うなよ」

「部長!私が悪かったです!直ちに改心いたします!なのでどうか、どうか処分だけは!どうか!部長!!!」

「それはテメェが決めることじゃない」

片方の足音が遠のいていく音が聞こえる、、、、、、

もう片方が泣きじゃくっているのが聞こえる、、、、、、、

「柏田さん!」

うん?望月さんの声が聞こえる。遠のいて行った足跡はヤツのものだったようだ。

全身に血が巡り始めたのを感じる。視界も開けてきた。

と、凄まじい勢いで望月さんが俺の後ろを通って行った。

「柏田さん!大丈夫ですよ、部長は今日ちょっと機嫌が悪いだけですよ。柏田さんは本当に素晴らしい上司です!私は絶対に柏田さんの下で働き続けたいです!」

視線をそちらに向けると、望月さんが柏田の隣に膝をおろし、熱烈に励ましの声をかけている。

ん?一体何が起こっているんだ。

頭がおかしくなりそうだ。

望月さんが柏田を庇っている?あれほど嫌な思いをさせられていたのに?眼窩の奥に目玉を押し込めたい衝動に駆られる。このまま視界に入れていたら、自分の目玉を潰してしまいそうな光景だ。男としては俺の方が上だと思っていた。柏田さえいなければ、思うがままに、自由に望月さんと関わることさえ出来れば、俺と望月さんが恋人同士になるのは時間の問題だと思っていた。それが違ったというのか。

「柏田さん、一度横になった方がいいと思います。会議室をお取りしますので、そちらに移りましょう」

未だ泣き止まぬ柏田をケアし続ける望月さん。俊敏に自席に戻ってパソコンを操作し、再び柏田の元へ戻っていく。

「会議室取れましたので、移りましょう。お手伝いします」

そのまま柏田の肩を自分の肩にかけ、会議室へと歩いていく望月さん。

心臓を吐き出してしまいそうだ。あれほど柏田を嫌がっていた望月さんが一体なぜそこまでするんだ。そのまま2人を目で追っていると、2人はそのまま小会議室Dに入っていった。俺の席から20秒くらいの場所にある会議室だ。俺の席からちょうど入り口が見える。2人が入り終わると、勢いよくドアが閉められた。会議室内から机や椅子がズラされる音が聞こえてくる。音一つ一つを受けて胸のざわめきがどんどん強まっていく。すると、一連の騒動を受けて静まり返っていたフロアに、次第に話し声やコピー機の音が蘇っていき、小会議室内の音を完全に掻き消してしまった。

何も聞こえない。そして出てこない。10分も経ったのに全くもって出てくる気配がない。一体今あの会議室内で何が起こっているのか。想像すればするほど気が気でない。脳内の至る所で一斉に小爆発が起こり始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る