第191話 『鉄道が欲しい!』

 安政二年七月十二日(1855/8/24) 


 大村藩ではライケンらオランダの教官による授業を受ける前から、洋式木造帆船の建造を行い、その航海技術の習熟を次郎の経験と知識、そして深澤組(捕鯨)の協力で行っていた。


 それを海軍の創設と考えると、十五年以上になる。


 最初こそ捕鯨船の建造と収益確保が必要であったために、藩士を海軍人員とする育成は進まなかったが、それでもライケンが到着する頃にはようやく50名ほどの人材が育っていた。


 五教館や開明塾は身分にこだわらず就学を許していたので、海軍においても多種多様な身分の者達が同じ釜の飯を食って研鑽けんさんしている。

 

 それは現在も変わらないが、幕臣を含めた他藩の藩士が伝習に来たのは今から四年前、嘉永四年の十一月である。


 かなりの大所帯になってしまった海軍伝習所であったが、ライケンとの契約更新とあわせて海軍兵学校となり、それまでの曖昧だった就学期間を四年とした。


 伝習所時代は軍艦の操艦、航海術、蒸気機関、砲術等の海軍軍事技術のほかに、医学や化学、語学(オランダ語)と物理学も教えていた。

 

 その中で医学は医学方(五教館開明大学医学部)、語学は語学部(英蘭仏露独語)、物理や化学などその他は大学の該当学部へと移行した。


 より専門的に海軍関連の技術と知識に集中したのだ。


 ちなみに大学の名前であるが、両校の卒業生を受け入れる事で五教館開明大学や、五教開明大学、まったく新しい学校名と候補がいくつかあったのだが、結局五教館開明大学とした。


 開明塾出身の者は学べることのありがたさや素晴らしさを実感していたので、大学の名前にはあまり関心がなかったのだが、次郎達は五教館出身の者達に配慮したのだ。


 名誉を重んじる武家の子弟達にとっては、まだまだ平民出身の者達と肩を並べる事に抵抗があったと思われるが、今後そういった身分意識は障害にしかならない。


 だからあえて開明塾の開明の文字を残し、かつ五教館を最初に持ってきて大学名としたのだ。


 また、初めはライケンらオランダ人教官のみが教えていたのだが、次第に卒業した海軍士官(と便宜上呼ぶ)が教官として教鞭きょうべんを振るうようになって久しい。


 



 伝習所(兵学校)の転機となったのは昨年のスンビン号(観光丸)の来航である。同時に幕府の長崎伝習所が開設され、勝海舟をはじめとした幕臣が川棚の伝習所を辞めて、長崎の伝習所へ移ったのだ。


 その後あまり時をおかずに、十二月には薩摩でも西洋式帆船の昇平丸が完成し、その運用のために薩摩藩士も薩摩へ帰っていった。


 この昇平丸であるが、本来の史実であれば、今年の六月に将軍家定の命により幕府に献上されるはずである。しかし、本来今年の八月に寄贈されるはずの観光丸がすでに去年寄贈されている。


 もし、献上されなければ、そのまま薩摩海軍の一隻目となるだろう。


 いずれにしても去年、幕臣が川棚から去り、薩摩藩士も帰っていったのだ。





 ■大村利純邸


「修理様、太田和殿はまだ殿に対して返事をなされておらぬとか」


 針尾九左衛門は利純に対して言った。


「……ふむ。もっともな結句(結果)よな。我が子を養子に出せと言う様なものじゃ。九左衛門よ……わしは公儀をたて、公儀がこれまで通り政を行うのであれば、是が非でも船を出さねばならぬ、とは思うておらぬのだ」


「な、何を仰せになりますか。蒸気船の献上こそ最上の策と、先日も仰せになったではありませぬか!」


 九左衛門が少し言葉を荒らげて返したが、利純が言った軍艦の献上は手段である。幕閣と良好な関係を築き、藩の今後を安泰としようとの考えからである。


 逆に言えば、献上をしなくてもその関係が得られて継続できるなら、献上する必要はないのだ。献上ありきの意見ではない。


「まあそう言うな。あれは手立ての話じゃ。お主の考えも心得ておるしその忠義は疑いようもない。ただ、兄上もそう考えているからこそ、わしと次郎左衛門の間にたち、あのような言葉を仰せになったのではないか?」





『修理(利純)の申したとおり、心血を注いだまさに我が子の様な物であろう。わしは公儀とは、程よい間柄が一番だと考えて居る。両者の言い分もっともなれど、次郎よ、しかと考え、後で教えてくれぬか』





 九左衛門は無能ではない。優秀な家老であり、実務家でもある。


 ごく一般的な、この時代においてごく一般的な思想の持ち主であるのだ。全国の260の藩が自治を行い、その頂点に幕府があって国政を取り仕切る。藩はその下部組織であり、優先されるべきは日本(幕府)という序列だ。


 ただ、それが時流にあっているかどうかは別問題である。


 ・藩主純顕……尊王佐幕大攘夷じょうい(天皇を尊び幕府を助け、外国に対抗するために開国)

 ・次郎左衛門……尊王弱佐幕開国(天皇を尊びひとまず消去法で幕府を助け、開国富国強兵でもし国益に反するなら攘夷)

 ・利純……尊王佐幕大攘夷(開国せずに攘夷できればいいが……もし開国したとしても仕方ないだろう)

 ・九左衛門……尊王佐幕大攘夷(本当は攘夷)


 ※大攘夷は広義での攘夷。国力を高め、その後に攘夷が決行するという考え方。


 尊王という点では一致しているのであるが、幕府に対する視点と開国の捉え方が違う。次郎の考え方としては、内乱なんてやっている場合じゃないから、(とりあえずは)佐幕なだけである。


 この点が九左衛門と大きく違う点なのだ。

 

 純顕も次郎の影響で思想的に近く、利純もあえて『つつがなく』と言っている。九左衛門は寄らば大樹の陰と考えているが、その大樹が腐りかけているのだ。


「もう七年になるか。お主も聞いておろうが、江戸におる際に宗右衛門(山川宗右衛門・九左衛門の一派)にも言うたが、わしは藩主である兄上を支える。その立場じゃ。立場の分をわきまえて行いを為さねばならぬ。意見は申し上げるが、兄上の考えに従う。よいな」


「はは」





 結果的に軍艦献上の話は、オランダからの観光丸の寄贈や幕府の軍艦購入の件もあり、今さら小型の飛龍丸(67.5トン)を献上したところで……という事となり、立ち消えとなった。





 ■次郎邸


「不問に処す、だとさ」


「良かったね、ジロちゃん」


 次郎の言葉にお里が返した。


「良かったは良かったけど、別に俺、罪人じゃねえし」


 座が笑顔につつまれた。軍艦献上の件はお蔵入りとなり、何事もなかったかのように日常が返ってきた。


「はあ~。しかし参ったな」


「どうした? らしくないな」


 今度は一之進だ。


「いや、蒸気機関が開発されて、もう5年だろ? 川棚型に載せて成功してから、ずっと蒸気機関車を考えていたんだよな」


「ああ、そう言えば言っていたな。俺が開発した蒸気機関で!」


 信之介がふんす! という感じだ。


「いや、あれは、お前の力ももちろんあったけどさ。久重じっちゃんの力が大きいでしょうが!」


 一之進がツッコミを入れるとお里が次郎に聞いてくる。


「それで、その蒸気機関車がどうしたの? 鉄道造りたいならさっさと……って言っても全然実用化の話してないね。どしたの?」


「うん、ぶっちゃけ、絶望的なくらい、金がかかる」


「いくら?」


「宮村から三浦村まで40kmで419万1,240両……」


「「「え? ?」」」





「なんて? いくらって?」


 一之進が聞き直す。


「桁間違ってないか? ……おさっちゃん(お里)、これ、予算的にどうなん?」


 信之介が真面目な顔でお里に確認をする。次郎は大きなめ息をした後に、腕を組んで目をつむっている。


「どうもこうも……3年半分の予算。これ、工期はどのくらい?」


 お里の質問に次郎が目を開けずにそのまま答える。


「40kmで3年3か月、でできるらしい。もちろん、工期は伸ばせるけどな」


 工期を伸ばすというのは、例えば1日でできる事を1週間でやるような事ではない。


 その場合人件費も7倍になるからだ。だからこの場合の工期を延ばすというのは、1日工事を行い、つぎの工事は1週間後に1日だけやる。そういう意味での工期を延ばす、なのだ。


「3年3か月でやったとしても、月に10万両以上かかる。これ、年間の純貯蓄の半分。まったく足りない。もし、赤字なく工事をやろうとすれば月の予算は3万両だから、11年8か月はかかるよ」


 全員が黙りこくった。


 規格外の事業を興し、医学発展・科学発展を成し遂げて藩の財政を大藩以上に潤してきた4人であったが、それにしても莫大ばくだいな金額である。


「金額は確か?」


「確かだ。来日しているオランダの鉄道技師に確認済み……」


 再びの沈黙である。





「これ、どうしてもやるって言うなら、藩で単独でやるのは無理よ。やるなら今の3倍以上の純利益がないと、赤字になるの分かってるもん。……他の藩や領民総動員で、さらに商人を巻き込んで大々的にやらないと無理」


「うーん。無理かあ……」





 次回 第192話 (仮)『第12代アメリカ東インド艦隊司令長官ジェームス・アームストロング』

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