第76話 『アメリカ東インド艦隊司令長官ビドル、浦賀に入港し通商を要求する』(1846/7/29)

 弘化三年六月七日(1846/7/29) <次郎左衛門>


 アメリカ東インド艦隊のジェームス・ビドルが、アメリカ政府(ポーク大統領)のジョージ・バンクロフト海軍長官の命をうけて浦賀に来航した。


 1845年5月22日付けの指令書にはこう書かれていた。


 ・通常とは違う意識をもって、日本のどの港が入港可能か注意深く調べ確認すること。


 ・もし公使が日本に向かう考えなら、その考えに沿って艦隊を指揮すること。


 ・もし公使が望まないのなら、適当と判断すれば、日本のアメリカに対する敵がい心をあおることなく、目的を遂行すること。


 ・公使が日本に行かない場合、代わりに提督が日本へ向かい、開港ならびに貿易をする気があるか確認し、条約を結ぶこと。





 この公使は、日本ではなく中国(清国)への公使である。艦艇は74門砲艦のコロンバス号(2,520トン)とヴィンセンス号(710トン)で、浦賀にいかりを下ろした。


 日本の通例通り長崎に行けば、オランダとの間になんらかの国際問題が発生する可能性があり、しかも意思決定機関から離れている。

 

 浦賀はちょうどいい場所だったんだろう。


 日本側の対応は杓子しゃくし定規のようなもので、薪水給与をしたわけだが、かなりの量である。


 実は、今回のビドル提督の来航については交易を求めるもので、難破している訳ではないから、給与の量を減らしてはどうか? との意見もあった。


 しかしビドルから、十分な量を貰えないなら自分たちで調達する、というある意味強硬手段ともとれる発言があったために、幕府は要求を呑むのである。


 水を2千石、松薪を5千本、梨・あんず・りんご・大根・ナス・その他の野菜多数、タマゴ2,500個、鶏424羽、米・小麦・砂糖など、かなりの量になる。


 しかも、無償で提供した。


 なぜだ? あり得ん……。難破船に対する人道的な無償援助ならわかる。でも普通に寄港した船だぞ? 


 薪が1.5kg×5,000で7,500kgなら銀480匁、タマゴ1個が12文で銀178匁、鶏1羽80文で201匁。


 これだけでも合計859匁=144,312文になる。


 当時の物価で米が1,375kg買える金額。大工さんの日当が銀6匁4分5厘で約1,083文。


 1文が何円なんて今の物価や貨幣価値を比べてもあんまり意味はないけど、間違いなく野党から突き上げをくらう対応だね。なんせタダなんだから。

 

 やっぱり外交をするには、それ相応の武力が必要って事なんだろうな。相手が主張を通そうとすれば、最終的には武力衝突になる。


 結局この、幕府の穏便に済ませよう姿勢は1853年のペリー来航までつづく。うーむ。





 ■精煉せいれん方 小銃製造方

 

 フリントロックは火縄銃に比べて、火縄を使わないために密集隊形が組める事と、火種を使わずに火蓋を閉じたまま発射可能なので、天候の影響を受けにくいというメリットがあった。


 しかしどうしても、サイドにあるハンマー状の発火機構・機関部が発射時に大きな衝撃を銃身に与え、命中率が下がるというデメリットがあったのだ。


 その点雷管式は、フリントロック式よりも小さな衝撃と短いタイムラグで発射が可能である。


 ライフリングを施した銃身と合わせることで、精密射撃が可能となるために、雨天時に影響を受けにくい事、発射時にすい石の火花を発しない点で急速にヨーロッパで普及したのだ。


「さて、まずは……この燧発式のカラクリはどうにかなったな」


 既存のミニエー銃の銃身へのライフリング加工が終わり、田中久重は、まずは前装式のニードルガン(ドライゼ銃)をつくろうと昨年から試みていた。


 今あるミニエー銃は、燧石式を改造して製造された雷管式なので、撃発機構であるサイドハンマー機構がそのまま使われている。


 ただし雷管式になったとは言っても、横にある発火機構のために、銃身の中心軸に対して衝撃を与え、そのために軸線に干渉して銃の精度を弱めていると考えたのだ。


 久重は最初から後装式を考えた訳ではない。

 

 次郎からはドライゼ銃の構造のアイデアをざっくりもらってはいたが、それを考える前にいくつかの問題をクリアする必要があったのだ。


 それが先にあげたサイドハンマーと、次にあげる雷管をかぶせる作業の煩わしさである。


 ニップル(火門座)と呼ばれる銃身につながった枝状のパイプに、さらに小さな雷管をかぶせるのは至難の業で、素手でなければ難しかった。


 加えて発射時にときどき雷管が破裂して事故が発生していたのだ。


 久重はこの三つの問題を解決するために、前装式のニードルガンの開発へ取りかかったのだ。ドライゼ銃は1841年にプロイセン軍に採用されて間もない。


 それに後装銃に関しては、イギリスを除く諸外国は、1866年の普おう(プロイセン・オーストリア)戦争でオーストリアが大敗するまでは、あまり優位性を感じていなかったのだ。


 フランスは急きょ、ドライゼ銃を改良したジャスポー銃の開発に取りかかる。


 それまで20年の時がかかっているし、それに軍事機密である。さらにオランダからのみの情報では、参考となる資料など皆無であった。


 そんな状況のなか次郎のアイデアがあったとはいえ、ここまで開発するとは、さすがのからくり儀右衛門である。


「おや、なんですか、この……ん? 鉛筆……ごほん、どんぐりみたいな、筆みたいな……」


 気分転換におイネを連れて精煉方のある川棚まで出かけてきていた一之進は、紙製薬きょうを見て久重に聞いた。


「ああこれは……一之進様に奥方様。これは、新しき銃の弾丸なんですよ」


 そう言って久重は新式銃の説明を簡単に二人にした。可愛らしいおイネちゃんは、いまや奥方様なのだ。しかし当の本人は、まったく気にせず、今まで通りみんなに接している。


 それはお里も同じだ。


 久重はまず、次郎がアイデアを言った際に発した『薬莢』という言葉にひっかかった。


 次郎は玉薬の入った『莢』(中に物が収まる外側の覆いという意)と勝手に名前をつけた、と久重に伝えていたのだ。


 久重は銃をつくるのは初めてで専門外であったが、すぐにその不便さを見抜いた。早合というものはあっても、いちいち破かなければならないし、時間がかかる。


 一緒にできないか? と考えたのだ。

 

 雷管・火薬・弾丸がひとつにまとまれば、装てんの時間が大幅に縮まる。それに次郎が言った『紙製の』というワードも聞き逃さなかった。


 そこでまず紙製薬莢を試作し、加えて前装式小銃の試作品を作ったのだ。


 まだ前装式ではあったが、右側のハンドルを手前に倒し、銃口から弾を込め、力を入れてハンドルを前に起こす。この動作で内蔵されたバネが縮んで圧縮された形になる。


 撃鉄を引けばそのバネの力で針が前進し、火薬を通り抜け内蔵された雷管に当たって起爆する。そして火薬に点火してさらに爆発して弾丸を前に押し出すという仕組みだ。


「どうですか御二方? 実際にご覧になりますか?」


 一之進とおイネは久重に案内されて、射撃場へ向かった。





 ■大砲鋳造方 五月五日


 2日に行った14回目の操業では1,800kg の鉄を使用した。砲1門ができあがり、流動性は満足のいくものになった。3月から行っていた穿孔だが、すでに3回目となっている。


 3月に始めた穿せん孔が3回終わったが、ここまで時間がかかった理由は、すい刀(ドリル)の準備が整わなかった事と、水車が何度も故障して長期間を要した事である。


 ■五月十二日

 

 12回目の操業でできた砲の試射を行った。砲弾重量4.05kg、火薬4.13kg を装填したところで砲身が破裂した。

 

 鉄成分の結合と硬軟の強弱が均等ではなかったが、回を重ねる度に状態は良くなっている。


 やはり破裂の原因は書籍に書いてあるとおり、鉄の成分内容と均一化である。





 次回 第77回 『プロパンガスか都市ガスか?』

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