1.記憶喪失

 どうやら私は記憶喪失になってしまったらしく、自分の名前も、年齢も、自宅の場所さえも思い出せない有り様だった。

 私はなぜこんな場所で寝ていたのか、なぜ記憶喪失になってしまったのか、事の経緯を知るべくそばにいた使用人の格好をした女性に聞いてみた。しかし、

「申し訳ありません。私も主より貴方様のお世話をするように言われただけで、それ以外のことは何も知らされていないのです」

 女性はそう言うと深々と頭を下げた。

 ならばと、私は自分の持ち物を見てみることにした。自分の身元に繋がる手掛かりが何かあるのではないと思ったからだ。免許証でもいい、資格証でもいい、どこかの店の会員証でもいい、何か一つでもあれば名前や住所を知ることもできる筈だ。

「こちらになります」

 そんな言葉と共に私の前に並べられる幾つかの品々。

 少しばかりの小銭しか入っていない使い潰された革製の財布に、細かな傷が無数に入った古びた腕時計に、どこのものとも分からない幾つかの鍵と、それを束ねる簡素なキーホルダー。それだけだった。自身の身元の特定に繋がるような物は何ひとつ無かった。 

 私はせめてここがどこなのかくらいは分からないものかと女性にここの場所を聞いてみた。

「ここの場所ですか? えーとですね……」

 女性はここの住所や近くの通りや駅や名所の呼び名を幾つか挙げる。しかし、女性の口から出てくる呼び名はどれも聞き覚えの無い、まったく知らない名称ばかりだった。

 私は途方に暮れた。行く当ても無く、頼れる人も無く、どうする手立て無く、困り果てた。

 そんな私に彼女は言う。

「もしお困りでしたら、何か思い出すまでこの館に泊まっていかれてはいかがですか? どうぞ引き続きこの部屋をご利用ください。いえ、お代などはいりません。困っている方をお助けするのは当然のことですから。当館の主も、事情を知ったならば、ぜひそうせよと言う筈ですので」

 今の私にとって、彼女の言葉はとてもありがたいものだった。

 私は彼女の言葉に甘え、少しの間、この館に留まることにした。

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