第3話 誘惑
千絵が持ってきたこのどんぶりに手を付けるべきか。
食欲が無いと言った手前、今すぐ食べ始めるのも変よね。それに毒が入っているかもしれないし。
でもダメ。食べ物に一度だって興味を持ったことのないこのアタイが食べたくてウズウズする。
それに、自分自身の唾液で溺れ死んでしまいそうだわ。
もうどうなってしまってもいい。アタイはこれを食べる!!
「っん!っん!モグモグ!
ふ、ふ、ふまいー(うまい)!!」
アツアツの甘じょっぱ出汁トロフワ卵が口の中で溶けて無くなる。
それに、卵の下に隠れていたこの肉は何?
猪肉のようだが臭みはなく柔らかい。どうしてこんなにジューシーなの?そうか、この香ばしい衣が、肉汁のうま味を閉じ込めているのね。
さらにその下に隠れていた白米との三位一体感。完璧!!
地獄の針山で、悪代官と悪徳商人と悪奉行が一本の針に同時に刺さっていたのを見た時の滑稽さより胸が高鳴るわ。
アタイが今まで口にしてきたものは一体何だったわけ?
「でしょ。瑠璃ちゃん。結構いけるでしょ?」
結構どころか、最高よ。
でも、こんなところで本音を言ったら、おいしい食べ物に屈したようで弱みを見せることになってしまうわ。
「ま、まあまあね」スンッ
「瑠璃ちゃんのお口に合ってよかったわ」
「ところで、この品の名はなんと申す?」
「しなのな?名前のこと?だったらただの『かつ丼』よ。まさか初めて食べるわけでもないでしょうし、瑠璃ちゃんって面白い子ね。うふふ」
江戸時代と比べて食文化が驚くべき進化を遂げているわ。
そもそも江戸時代にアタイが口にしていたものは、
それらが食べられればまだいいほう。奉公先でミスをすれば飯抜きになり、道端の雑草や干乾びたヒキガエルを食べていたものよ。
それが、現代は食堂のカウンターでかつ丼と注文すればいつでもこんな美味しいものが食べらるなんて、まるで天国ね。
そこは行ったことないけど。
ともあれこの千絵って子、本当に悪意なくただアタイに良くしてくれているの?
アタイはこんなにもやさしい子を地獄に落とさなくちゃいけないの・・・?
だ、ダメよ!同情なんかしたらダメよ!アタイには地獄誘致という崇高な使命があるのよ。
この子もキッチリ地獄へ送ってあげる。
だけど、今はこの子の善意を利用してもっと人間界の食べ物を調べさせてもらうわ。
そ、そうよ。これはリサーチよ。決して千絵に好感を持ったわけでも食を楽しむためではないわ。
千絵を呪うのはもう少し先にするわ。
「お千絵ちゃん。ありがとう」
~帰宅~
「瑠璃君。転生初日はどうだった?」
「毘炉さんの言った通り、江戸時代とは違うことが多すぎて戸惑ったわ。それに閻魔大王様が危惧された通り、道徳心の高い人間が多いように思えたわ」
「そうなんだよ。僕もそこには苦労していてね。呪いを広めて地獄への誘致活動ってのが、なかなかうまくいっていないんだ。
ただまぁ、そこは臨機応変とうまくやっていこうよ。
それより夕食だけど、瑠璃君のことだから昼食もろくなものを口にしてないんじゃないか?
この時代は出前と言って、好きな食べ物を持ってきてくれるシステムがあるんだ。
具体的でなくていいから、食べられそうなものを言ってよ。無理してでも何か食べないと使命の前に倒れて、」
「かつ丼をいただくわ」
「あ、ああわかった」
~こうして転生初日の夜はふけていった~
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