第16話 マーヤークさんと妖精女王の過去1

 感情がめちゃくちゃだ。


 存在を維持するのが難しい。


 マーヤークは、今起こったことについて、思い出したくないと感じながらも反芻する。今度こそはと思っていた。こんな自分に理解を示してくれた優しいエルフの娘。好感を持っていた。確かに愛を交わした気がする。月明かりに映える彼女の白いうなじが、今も目に焼きついている。


 なのに何故……


 お互いの気持ちを確かめ合って、優しく口付けをし、薔薇色の乳首が固く尖っていることに気づいた。そのまま唇を這わせ、彼女の胸に顔を埋める。幸福な気分で微笑み、お互いに愛を囁いた。


 その後、初めて彼女と結ばれ、震えるような快感に我を忘れた。


 しかし、ふと目を開けると、愛しいエルフの娘は塵になって消えていた。


 何があった?


 彼女は死んだのか?


 いや……殺したのは……私?


 記憶に残っているのは、彼女の喉がビクンと跳ねて、両手で顔を押さえ、そして……彼女の耳に……指を……



「嘘だあぁっ……!」



 マーヤークは青ざめながら頭を抱えて縮こまる。


 どこをどう走ったのか、森の中に迷い込んでしまった。ここはどこなのか。太陽もとっくに登っている。しかし帰る場所などもうない。


 実は、こうなったのが初めてではなかった。


 以前愛していたナーガの彼女も、ニンフの彼女も、人魚の彼女も、ドライアドの彼女も、気がついたら消えていたのだ。いや、正確には消える瞬間だった。


 明らかに自分が生命力を吸い尽くして、愛する女性の体が崩壊していた。


 意図したことではなく、何故そうなってしまったのかわからない。


 もう誰も愛せない。


 腕の中で愛するものが消滅してゆく絶望感は、マーヤークの精神を確実に削り取って行く。


 悪魔としての存在感も不安定になり、長い時間かけて築いた自信も崩れ去っていた。


 それまで笑顔で迎えてくれた者たちが、手のひらを返すように憎しみをぶつけてくる。


 傷ついたマーヤークには、愛する人を失っただけでなく慰めてくれる仲間もいない。


 やはり悪魔だから?


 初めから殺すつもりで近づいたのか?


 まさか、そんな。私はどうしてしまったのだ?


 何かがおかしい。だが、考えがまとまらない。


 もう少し、落ち着くまでこのまま隠れていよう。


 悪魔マーヤークは自分の外見が激しく変化していることにも気づかず、白から黒、子供から大人へとモーフィングし続けていた。



「かわいそうに、傷ついているのね」



 しばらくしてどこからか声が聞こえ、思わず顔を上げると、目の前に小さな手が差し伸べられていた。







「ここは妖精の森よ。あなたのことは、この子たちが知らせてくれたの」


「……私は悪魔なのですが」


「うん、そうね……ふふっ」


「……何が可笑しいのでしょうか?」



 マーヤークは目の前にいる光の粒を纏う妖精が、なぜ余裕で笑っていられるのか理解に苦しむ。本来なら妖精は悪魔を嫌って近づかない。悪魔も妖精は苦手としていて、両者は出会ってもこんなふうに言葉を交わしたりしないのだ。この妖精はほかの者よりサイズが大きい。ほとんどマーヤークと同じくらいの背丈があり、美しい翅と柔らかな木の葉色の髪を風に靡かせていた。



「あなたは妖精女王か……?」


「あら、どうしてわかったの?」


「それくらいのことはわかります」



 やはりそうか……


 マーヤークは、立ち上がって服についた落ち葉をはたいて落とすと、妖精女王に向き合った。体は12歳くらいの少年になっている……これでは舐められても仕方ないというものだ。黙って一礼をすると踵を返し、大股でサクサクと落ち葉を踏みながら彼女から離れる。今、妖精とトラブルを起こすわけにはいかない。吐きそうな気分で魔力も安定していないのだ。戦いになったら負けるだろう。その程度の現実的な予測はできる冷静さを保っているつもりだ。



「あなた、傷ついてるのね」



 離れたつもりが、すぐ隣から声がする。まったく妖精は面倒な相手だ。思わず剣呑な対応をしてしまう。



「私に近づくと、あなたも死ぬ」


「も? っていうことは、誰かを失ったということね」


「あなたには関係ないでしょう」


「あら、あなたはこの森に助けを求めてやってきたのよ。どんな者にも森の恵みは与えられるべきだわ」


「助けなど求めていません」


「ふふ、優しいのね」


「な……!?」



 まったく怯まない妖精女王に、諦めの気持ちで悪魔マーヤークは口を閉じる。


 今の力関係では完全に向こうが上だ。逆らっても無駄なので無意味なことはしない。ついて来いといわれるままに、妖精女王の後を歩いた。







 妖精女王は城に住んでいないようだった。大きな葉を重ねたような屋根の小さな一軒家に招かれて、素直にテーブルにつく。室内はごく普通の木でできた緑色の家具が並び、どちらかといえば質素な雰囲気だった。



「朝露とカレンデュラのお茶よ。糖蜜とオレンジピールを入れると美味しいわ」


「……いただきます」



 ふわりと香るハーブに癒やされて、マーヤーク少年は妖精のお茶をひと口飲んだ。白いティーセットは華やかな模様が描かれていて高級感が漂っている。途端に心が安定して気持ちが華やいだ。思わず目を見開いて顔を上げると、柔らかに微笑む妖精女王と目が合って、羞恥心を覚えて視線を落とす。



「あのね、丁度お手伝いさんがほしいと思っていたのよ。あなたさえ良ければ、いつまでだってここに居てくれていいわ」



 行き場の無かったマーヤークにとって、この申し出は有り難かった。妖精女王の手伝いはごく簡単なものばかりで、少年状態の悪魔にもたやすい。問題は、時折訪ねてくる子どもの妖精だった。



「何でお前がここにいる?! お前悪魔だろ! 」



 会うなり噛みついてくる自分と同じ背丈の妖精を、マーヤークは心底苦手だと感じた。妖精女王の息子だというこの子供妖精は、定期的に森の家にやって来てはマーヤークの仕事を邪魔する。



「……やめろ……おやめください!」


「うるさい! 悪魔のくせに! 母さまの家から出ていけ!」



 マーヤークは手伝いという立場なので、妖精王子に強く出られない。精神年齢的にはマーヤークのほうがずっと大人のはずなのだが、気がつけば同レベルの喧嘩をしてしまっていた。落ち葉まみれになって取っ組み合いをしていると、決まって妖精女王がやってくる。



「あらあら、二人とも元気いっぱいね」


「母さま! こいつが!」


「私は止めようとしました!」



 優しく微笑む妖精女王は、2人の子供を両腕に抱き寄せ、頬をペチペチと軽く叩いてまた笑う。



「おやつにしましょう。今日は姫林檎のお茶よ」


「母さま! 林檎菓子もある?!」


「あるわ」



 戯れる2人について歩くマーヤークは、こんな時間が永遠に続くような気がしていた。







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