第六話その1「なんでちーちゃんじゃなくわたしなわけよ?!」

 全国高等学校総合体育大会、通称インターハイ。毎年八月に開催されるその予選は各都道府県で六月頃から順次実施されている。今年(二〇一六年)の石川県での柔道の予選は六月二日から四日の日程で、男子団体戦は二日、個人戦は三日と四日。ゆうくんの出場する八一キロ級は最終日の四日だった。なお六月四日は土曜日。私立の理尽高校は土曜日に半日だけ授業がある週と完全に休みの週があるんだけど、四日は後者に当たっている。

 そして今日は六月二日木曜日、場所はJR東金沢駅に程近い石川県立武道館。理尽柔道部は団体戦を戦うためにそこへとやってきていた。団体戦メンバーは当然として、ゆうくんのように個人戦にしか出ない選手も引き連れている。わたし達が会場へと乗り込むと出場者・関係者の視線が集中した。理尽は全国大会常連の(県下では)強豪校なのでその動向に注目が集まるのはいつものことだけど、今年は特別だった。


「ヴラディスラフ・ショスタコーヴィチは……」


「いないみたいだ」


 なんだ、という落胆の声があちこちから聞こえてくる。……まあ、そりゃそうよね。七熊先生は柔道界の世界的な英雄、柔道人なら一目だけでも実物を、って考えるのが当然だ。でも、たかだか県予選ごときで七熊先生が顔を出すはずがない。


「みんな、判る? 理尽が注目されているのが」


「押忍」


 一之谷君が部員を代表して返答する。


「みんなが七熊先生の指導を受けていることはこの場の全員が知っている――その意味は、判るわね?」


「押忍、七熊先生の顔に泥を塗るような無様な試合はしません」


「ならばよし! 薙ぎ払ってきなさい!」


 押忍!!という雄叫びを轟かせる理尽柔道部。気合充分のみんなにわたしは満足して頷いた……ホールで大声を出したので役員の人に小言を言われ、わたしと萬田先生で謝る羽目になったけどそれはともかくとして。

 そして始まる男子団体戦。その監督は萬田先生に任せ、わたしは応援の部員を引率するため観客席での観戦である。わたしの隣に座るのは当然のようにゆうくんだ。三面ある試合場の一つでは理尽が闘っているけどゆうくんはそこではなく、その隣に注視していた。

 理尽の隣で試合をしているのは私立穣里じょうり学園高校柔道部。理尽と穣里は県下では私学の両雄と並び称されるライバル高校で、「北の不条理・南の理不尽」なんてよく言われている。理尽と同じくスポーツに力を入れており、特に野球部は甲子園の常連校でメジャーリーガーまで輩出した名門である。

 わたしのときは「私学の両雄」というのも今はもう昔の話になって、理尽が一方的に穣里をライバル視するけど相手にされていなかったような有様だった。時任グループがどんどんどんどん傾いていき大歳寺市が不景気となって人口が流出し、理尽の生徒も減って部活も弱くなる一方。時任から理尽への寄付も申し訳程度という話だったからね。でもこの時間軸ではそうじゃない。グループは絶好調で、全国に先駆けた少子化対策により大歳寺市は人口増の好景気。理尽の生徒も大幅に増えていて、各種部活も強豪校としての地位を保っている。柔道部に一番重点を置いているけどグループは他の部活にだって充分な支援をしているし。野球ではさすがに穣里にゆずるけど柔道では逆に理尽が勝ち越しというところで、自他共に認めるライバル関係を維持し続けているのである。

 で、その穣里柔道部の中でゆうくんが注視しているのが三年の猪川一いがわ・はじめという選手で、ゆうくんと同じ八一キロ級。昨年は個人戦でインターハイ出場を果たしている。当然今年も個人戦にも登録していて、ゆうくんが全国に行くにあたっては最大の壁となる選手である。今日ここに来たのも応援のためじゃなく、猪川選手の偵察のためと言ってよかった。

 猪川選手は団体戦では副将で、今対戦している相手は百キロ超の大型選手。さすがに苦戦しているようで相手に投げられて有効を取られた――と思いきやそのまま流れるように関節技に移行。十字固めで相手に参ったを言わせ、あっさりと一本を取ってしまう。ゆうくんは難しい顔で小さく唸っていた。


「猪川選手は寝技の名手で、『寝技のスペシャリスト』『寝技職人』なんて呼ばれている。寝技じゃまず勝ち目はないわよ?」


「ですね。立ち技で勝負しないと」


 ゆうくん寝技はそこまで得意じゃないからね。「ゆうくん改造計画」にはファッションだけじゃなく柔道部門もあるんだけど(むしろそっちの方がよっぽどメインなんだけど)それは充分な成果を上げたと言っていい。今のゆうくんはわたしの一年のときよりもずっと強くなっている。それでも、寝技という弱点を埋めるまでには至らなかったのだ。

 ちなみに、わたしも一年のときに個人戦に出場したんだけど――わたしは萬田先生に嫌われていたけど選手層が今よりずっと薄くて、わたしは有望な選手だったからね。で、準決勝かどこかで猪川選手と当たって寝技にやられている。翌年は階級を上げて全国に行ったけどもし猪川選手と同レベルの強敵がいたとしたら、それでも全国に行けたかどうかは何とも言えなかった。

 もし仮に今のゆうくんが二年のときの、九〇キロ級のわたしと闘ったとしても簡単に負けはしないし、作戦次第では勝つ見込みが充分にあるだろう。猪川選手も同じだ。簡単に勝てる相手じゃないけどちゃんと作戦を立てて、自分の強みを相手に押し付けられるならきっと勝てるはずだった。

 そして始まる団体戦の決勝戦。決勝まで勝ち進んだ理尽の対戦相手は、当然のように穣里である。先鋒で勝って次鋒で負けて中堅で勝って、副将戦。穣里の副将が猪川選手、対する理尽の副将は一四〇キロの巨体を誇る米一君だ。さすがの猪川選手も苦戦するかと思われたけど、さすがに猪川選手と言うべきか。米一君が猪川選手を圧し潰してそのまま抑え込みで勝利――と思いきやするりと逃げられて返されて、片羽締め一本で負け。理尽応援席はがっかりしたため息に満たされた。


「米一先輩はなぁ……」


「米一君はねぇ……」


 その巨体と腕力は並の選手じゃ相手にならないんだけど、彼はそれに驕って練習は手を抜きがちだし試合でも油断して負けることがたびたびあった。なお米一君は卒業後相撲部屋に入門するんだけどきつい稽古に耐えかねて早々に逃げ出し、その後は東京でフリーターをやっている……という噂を聞いている。わたしのときの話でこの時間軸でもそうなると決まったわけじゃないんだけどね。

 まあ、そんな話はどうでもよかった。今大事なのは目の前の大将戦で、それに臨むのは一之谷君。理尽の全国出場は彼に託され――そして彼はそれを裏切らなかった。


「うおおりゃああっっ!」


 豪快な払い腰で一本!……には至らず、有効止まりではあったんだけど、彼は終始攻め続けて相手にポイントを与えず、そのまま優勢勝ち。団体戦の勝利を決めて全国への切符を勝ち取ったのである。






 理尽柔道部が母校に凱旋したとき、大勢の生徒が拍手で出迎えてくれた。そして夕方の部活の時間だけど、団体戦メンバーと明日の個人戦出場予定者は完全休養。ゆうくんのような明後日の個人戦出場予定者も、疲れを残さないよう軽くストレッチをしたくらいで終わりである。他の部員はいつもの通りの予定だったけど萬田先生も主要メンバーもいない中で気合が入るとも思えず、早々に終わらせることとした。


「なのに何しているわけ?」


「いやそのイメージトレーニングを……」


 他のみんなは帰ったのにゆうくんはまだ一人柔道着を着たままで武道場にいて、わたしの刺々しい口調にゆうくんは恐縮したようだった。


「作戦を考えていただけで疲れることはしてないから」


「それなら家でもできるでしょ。ゆうくんが帰らないとわたしも帰れないじゃない」


 わたしが武道場の鍵を指に引っかけてくるくると回し、ゆうくんは残念そうな顔となった。


「すぐに着替えてきます」


 ダッシュで更衣室に入っていき、スーパーマンもかくやという早変わりでわたしの前に戻ってくるゆうくん。でもわたしは頭痛を堪えるような顔となってしまった。


「ゆうくん……」


「はい」


「なんでジャージなの?」


 ゆうくんが柔道着から着替えたのは制服じゃなくジャージのスポーツウェア。まあ、理由は訊かずとも判るけど。


「いや走って帰るから」


「副顧問命令、ちーちゃんと一緒に車で帰るわよ」


 「試合は明後日なのに」とか「走らないと調子が出ない」とかぶつくさ言っているゆうくんだけどわたしの命令に逆らうつもりはないようだった。ゆうくんは仕事中毒ワーカホリックならぬ練習中毒なところがあるのでオーバーワークにならないよう注意が必要だった。わたしのときもそうだったけどそれよりも悪化しているように感じられるのでなおさらである。


「いよいよ明後日が本番かと思うと、何かしていないと落ち着かなくて……簡単に勝てる相手じゃないから」


「気持ちは判らなくもないけど、体調を万全に整えるのも試合のうちでしょ」


 判っているつもりです、と独り言のように言うゆうくんだけど、その顔には焦りと不安がにじんでいた。うーむ、わたしももちろん緊張はしたけどここまでじゃなかったような……一年のときは負けて元々で挑んだ予選だったし(実際負けちゃったわけだけど)。ゆうくんの場合は勝てない相手じゃない分そこまで開き直れない、って感じだろうか。わたしは少しばかり思案をし、


「そうだ、全国まで行けたらご褒美をあげようか!」


「そんな、たかだか県予選くらいで……」


「うん、だからご褒美も控えめに、ほっぺにちゅーくらい?」


「本当ですか?」


 と久しく見ていない真剣な顔になって身を乗り出すゆうくん――食いつきが良すぎで身体ごと退きそうになっちゃったよ。そんなにちゅーしてほしいのか? わたしは呆れた顔をすぐに満面の笑みに切り替えて、


「うん! ちーちゃんから! ちゃんとしたキスは日本一のときかな? でもそれは自分で交渉を……何その顔は」


 なんでそこまでがっかりしてるのゆうくん? 捨てられた子犬が雨ざらしになってるのかと思ったよ! 表情の激変ぶりにびっくりだし、しょんぼりと肩を丸めているから身体が一回り小さく見えるよ!


「ちーちゃんのちゅーに不満があるとでも?!」


「いやだって……そもそもあいつがそんなことするわけないじゃん」


 うぐ、確かにそう言われると何も言えない……あの子の性格と、ゆうくんとの今の関係から「勝ったらちゅー」とか言い出したら脳の具合を疑うところだ。


「ああもう、勝ったらちゅーは青春の王道なのに! せっかくの機会だっていうのに!」


 ちーちゃんは確かにヒロインとして色々問題はあるけど、あんたもあんたよ、ゆうくん!


「この一五年間あんたは何をしてきたわけよ!」


「えっと、柔道?」


「んなこと判ってるわよ。それ以外で!」


 問われたゆうくんは首をひねって考え込むけど特に何という答えは出てこないようだった。こいつ……わたしのときから少しは改善されたかと思っていたけど肝心なところは全然変わってないな!


「そこに座りなさい!」


 わたしはいつものお説教態勢となってそう命令。ゆうくんは不思議と不服を半々にしながらも言われた通りに正座した。わたしはその前に立って、腰に手を当てて彼を見下ろす。


「ゆうくん――女の子に興味は?」


「はい?」


「いわゆるリア充の人達みたく、可愛いガールフレンドとイチャイチャラブラブな青春を送りたいって思わないわけ?」


「それはもちろん……」


 ちょっと目を泳がせながらもゆうくんはそれを否定しなかった。仮にも自分のことだ、こいつのことは誰よりも判っている。表面上は柔道一直線で色恋沙汰なんざ馬鹿らしいって顔をしているけど、本当は可愛い女の子とイチャイチャラブラブしてみたいって、心から何よりも切望しているってことを!


「だったらどうして自分から動かないのよ!」


 そう、わたしはそれを熱望しながらも何もしなかった。渇望しながらも自分から動こうとしなかった。その結果が柔道漬けの、男臭く汗臭いだけの灰色の青春だ。


「あんたね、自分がどれだけ恵まれた立場か判っているわけ? ちーちゃんみたいな超絶美少女と生まれたときから幼なじみで兄妹みたいに一緒に育って高校も一緒で!」


 前世の「善那悠大」がこれを知ったら嫉妬に狂ってあんたのこと呪い殺すわよ、きっと。


「口を開けて待っていればほしいものを放り込んでくれるのは子供のうちだけなのよ! ほしいものがあるなら自分から動かないとだめなのに! ちょっと手を伸ばせば求めるものは全部手に入るっていうのに!」


 ほんの少しだけ勇気を出しさえすれば超絶美少女な幼なじみを恋人にして、彼女のいる高校生活が送れるっていうのに! 「善那悠大」が望んでやまなかったラブコメな青春を本当にできるっていうのに! でもわたしがどれだけお膳立てをしたって、結局あんたが自分で動かなきゃ何も始まらないんだよ!


「百佳さん……判っている」


 音もなく立ち上がるゆうくんがわたしに向き合う。わたしは十数センチばかり高い位置の彼の顔を、強い決意に満ちたように思えるそれを見上げた。


「自分から動かなきゃほしいものは絶対に手に入らない――確かにその通りだって思う」


「判ってくれたの?」


 ゆうくんは確固とうなずき、その拳を握り締めた。未だ半分以上信じられないながらも「これはもしかして本当に……」とわたしの中で期待の水位が急上昇する。


「それじゃ早速だけど百佳さん」


「何?」


「ほっぺにちゅーは百佳さんにしてほしい」


「真顔で何言ってるのあんた」


 これ以上ないくらい真剣だったゆうくんの表情が不満そうなものへと変化した。


「あと日本一になったら」


「待て待て待て! なんでちーちゃんじゃなくわたしなわけよ?! もしかしてあんたまだ親子丼とかふざけたことを」


「いやいやいやそれはない」


 残像が生じそうな勢いで首を横に振って必死に否定するゆうくん。エイラにあれだけ折檻されただけあってさすがに懲りたらしい。


「二兎追うものは一兎も得ず。親子丼なんて欲張ったことは言わずに、ここは本命に集中するべきではないかと」


「うん、その考えは正しいと思うよ?」


 問題はその本命が誰かってことなんだけど……普通に考えれば二人のうちのもう一方しかないわけだけど……でもわたしはゆうくんからすれば母親世代の、母親同然の存在。いくらわたしが二〇代にしか見えない若々しさでゆうくんのド真ん中ストライクな爆乳グラマーの超絶美人で、オリンピックを目指すゆうくんをこれまでずっと陰に日向にサポートしてきたからって……うん、ないな! あり得ない話だね! ……そうだよね?


「その……ゆうくんにはちーちゃんがいるわけじゃない?」


「中途半端な気持ちであいつに向き合うのは失礼だろ。どう考えても本命の方はただの憧れで終わる話で望みなんか限りなくゼロと同じなんだから、しっかり玉砕して区切りを付けてからでないと」


「うん、その考えは正しいと思うよ?」


 ……うん、良かった。わたしは心からの安堵のため息をついた。ただの憧れだって自分で判っているなら話が早い。ここはきっちりと、お姉さんがゆうくんの初恋を終わらせてあげるべきよね?


「ワンチャン上手くいくならそれに越したことはないし、だめならだめで保険の方で」


「違うそうじゃない!! あといっぺん死ね!」


 せっかくいい感じに話がまとまったと思ったのに、何を言い出すかなこいつは?! わたしのときと比較すれば積極的に動くようになったかもしんないけど、わたしのときと比較にならないくらいの阿呆になってない? こんな話をちーちゃんに聞かれたら――


「面白い話をしているわね」


 二人だけの武道場に響く、第三者の声。聞き慣れたその声の方を向けば、入口に佇んでいるのはちーちゃんだ。


「ちーちゃん……どうして」


「待ってても来ないから様子を見に来ただけよ」


「えっと、どこから話を」


「ご褒美はほっぺにちゅー、のあたりから?」


 ほとんど最初からじゃないか。わたしは天を仰ぎながら自分の発言を顧みるけど……うん、特に問題になるようなことは言っていない……はず。ゆうくんは知らないけど。そのゆうくんは気まずそうな顔でちーちゃんから目を逸らして、ちーちゃんは一直線にゆうくんに近付き――あと数メートルのところから思い切り助走を付けて、


「誰が保険だこんにゃろー!!」


 ゆうくんのお腹にドロップキック! でもゆうくんは逃げもせずに真正面から腹筋で受け止めてはね返し、ちーちゃんは畳の床に墜落した。自動車に轢かれた蛙みたいな体勢で小さく震えているちーちゃん。大丈夫?とわたしが手を貸して起こし、ちーちゃんは涙目になりながらも自分で立ち上がった。ゆうくんも手を貸そうとする姿勢は見せたんだけど、結果としてはただ傍観していただけである。拒絶されるだけなのが目に見えていたからで、実際立ち上がったちーちゃんはゆうくんのすねをゲシゲシと全力で蹴り続けている。でもゆうくんは、一応痛そうな顔はするけどそれはポーズだけだ。この程度でゆうくんが本当に痛がるはずがない。ちーちゃんの方が先に疲れて息が上がっている。


「この……! 無駄に頑丈ねこのエロゴリラは!」


 業を煮やしたちーちゃんが――力いっぱい股間を蹴り上げた! 鍛えようのない急所に直撃を食らい、ゆうくんは崩れ落ちてしまう。


「ちょっ、おま、それ反則……」


「知るか、死ね」


 クリティカルヒットに満足したのかそれ以上の追撃はせず、ゆうくんを冷たく見下ろすちーちゃん。……うん、暴力ヒロインって最近は流行りじゃないけど、ちーちゃんは許される暴力ヒロインだよね、きっと。


「帰るわよ」


「……うん、そうね。それじゃゆうくん、先に帰ってるね」


 ちーちゃんは長い髪を翻して背を向けて歩き出し、わたしがそれを追った。ちーちゃんが見えなくなった途端にゆうくんは身体を起こし、頭をかいている。本当は一緒に自動車で帰るつもりだったけど、一人でバスで帰ってね? あと、ちゃんと反省するように!

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