第六話その2「変えられると思っていたのに!」

 翌、六月三日金曜日。柔道部は六〇キロ級、六六キロ級の個人戦があり、わたしと萬田先生で引率する。今日は出場しない部員は普通に授業で、ゆうくんもちゃんと授業を受けていることだろう。今日の個人戦で理尽の選手は残念ながら敗退。でも上の階級にはゆうくんも含めて強い選手がそろっているから、きっと全国まで勝ち上がってくれるに違いなかった。

 学校に戻ってきてすぐに放課後となり、明日に備えて今日は部活を完全休養日としている。ゆうくんは山武君達と少しだけ寄り道してから帰るという話で、ちーちゃんは彩羽ちゃんやラーナちゃんと創作活動。そしてわたしは講師としての仕事だったけど、それも大した量じゃないので六時半過ぎには帰れる状態となった。


「エイラさんは?」


 駐車場の自動車を前にしてちーちゃんがそれを問う。


「時任の方で何か集まりがあるんだって」


 それ自体はさして遅くまではかからないそうだけど、せっかくだから旦那さんと二人の時間を過ごすように言ってある。この週末は久々に(蓮ちゃんのところに行かない中での)エイラ不在の週末だった。


「それはいいけど……じゃあ誰が運転するの?」


「決まってるじゃない」


 わたしが自動車の鍵を軽く揺らして示し、ちーちゃんはくるりと踵を返した。


「タクシーで帰る」


 待てい!とその肩を掴むわたし。


「子供が無駄遣いするな!」


「じゃあバスで帰る」


「そんなにわたしの運転が嫌か?」


「嫌。怖い。死にたくない」


「そんなに簡単に事故るわけないじゃないの!」


 確かにすごく久々の運転だから自分でもちょっと不安があって、いっそタクシーを使おうかとちらりと考えもしたけど! ちーちゃんにこんな扱いをされて、それでも運転をしないという選択肢はわたしにはない! 押し込むようにしてちーちゃんを後部座席に乗せ、わたしは運転席に乗り込んだ。


「えーっと、ブレーキ、アクセル、ライト。うんうん覚えてる、大丈夫大丈夫」


「もう既に恐怖しか感じない……」


「心配し過ぎなのちーちゃんは! ……えっと、エンジンをかけるのは……」


 エンジンのスイッチがハンドルの下の判りにくいところにあったのでちょっと時間がかかったけど、ちーちゃんを余計に怖がらせもしたけど、それでもわたしは自動車を動かして家路へと就いた。町中は多少混雑していたけどすぐに交通量の少ない道へと入っていく。自動車は川沿いの国道を快走した。空にはまだ夕焼けが残っていて、間もなく夜の七時だとは思えない明るさだった。でも当然ライトは点灯していて、それがジャージ姿の歩行者を照らし出し――


「あ、でかいの」


「ゆうくん? こんな日までランニングで帰ってるなんて」


 もう、公式戦の前日だって判ってるの? 今からでもこの自動車で乗せることにしよう、説教付きで。ゆうくんが国道を逸れてその側道の河川敷の道路に入っていったのでわたしはそれを追った。自動車をゆうくんの方に寄せて、声をかけようとウィンドゥを下ろし……えっと、どれだ? こっちは後ろの窓か。


「お母さん!」


 気を取られたのはほんの数秒。でもその間に自動車は数十メートル走っていて、ハンドルはゆうくんに向けられたままで、ヘッドライトの強い光がゆうくんの驚いた顔に浴びせられ――


「――!」


 全力でブレーキを踏んでハンドルをひねって、自動車はドリフト走行のように横を向き、タイヤから白煙を上げて急停止。額から大量の汗が流れ、滴るくらいの汗で掌が濡れ、ハンドルを持つ手が震える。腕を始めとして全身の筋肉が石になったかのように硬直し、自分の意志で動かせるまで多少の時間が必要だった。大丈夫、車体に何か当たった気配はなかった。ゆうくんをびっくりさせてしまっただけ……!


「ゆうくん!」


 わたしが自動車の外に飛び出し、ちーちゃんがそれに続いた。ゆうくんは……どこにもいない。どうして?! どこに!? まさか車体の下……いない、良かった。


「あ、あいつ川まで」


 言われて川の方を見ると、川の中で尻もちをついているゆうくんの姿。多分自動車を避けて土手を転げ落ちてしまったんだろう。わたし達に気付いて手を振る彼に、わたしは安堵のあまりその場に座り込みそうになった。それは二級河川の大歳寺川で、今の水深はせいぜい数十センチで流されたり溺れたりといった心配はない。でも下半身はずぶ濡れだろう、申し訳ないことをしてしまった。


「いつまでそうしてるのよ。早く上がってきなさいよ」


 ちーちゃんがゆうくんにそう声をかける。でもゆうくんは、いつまで経っても立ち上がろうとしなかった――自力では。






「捻挫ですね。一週間は負担をかけないようにしてください」


 ……そこは市内の総合病院、時刻は午後八時をとうに回っている。

 ゆうくんに怪我を負わせたわたしは一一九番で救急車を呼んでゆうくんを病院に搬送してもらい、一方わたしは救急車を呼べば自動で付いてくる警察の事情聴取を受けた。その一方ちーちゃんがエイラに連絡を取り、エイラはグループの顧問弁護士を引き連れてものの三〇分で参上。散々警察とやり合い、


「申し訳ありません、おそらく罰金と免停は免れないものと……」


「そう」


 エイラの報告にわたしはどうでもいいように応え――実際それはどうでもいい話だった。故意でなくても、直接当てたわけでなくても、わたしがゆうくんに怪我を負わせたことは争う余地のない厳然たる事実である。罰金でも免停でも免許証取り消しでも交通刑務所でも、何でもいい。わたしの罪と愚かしさに相応しい罰が与えられるべきで、罰金と免停では罰にも何にもなっていなかった。罰金がいくらかは知らないけど十万円でも百万円でも姫宮にとってははした金だし、わたしはもう二度と自動車を運転しないのだから。

 そして診察室に招き入れられ、医師から診断結果を告げられ、右足首をテーピングでガチガチに固定されたゆうくんが強がった笑顔を見せて――わたしは腰が抜けたようにその場に座り込んだ。土下座をするように前かがみとなって両掌を床につき、その手の甲がいくつものしずくで濡れる。


「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさいゆうくん……ごめんなさい……」


「いや大した怪我じゃないから! ちょっと大人しくしていればすぐ直るから!」


 いきなり泣き出したわたしにゆうくんは大いに狼狽え、慰めでそう言う。でもわたしの涙は止まりはせず、身体中の水分が全部流れるかと思われるくらいだった。いっそ本当に全部流れて干からびて、そのまま死んでしまえばいいと思う。


「でも……インターハイ……その足じゃ」


「まあ……今回は仕方ない」


 ゆうくんは無念さを堪えつつ自分に言い聞かせるようにそう言う。わたしの泣き方は号泣と言うべきものとなり、ゆうくんをさらに慌てさせた。


「別に、二度と柔道ができなくなったわけじゃないんでしょ? 一週間ゆっくりして、次の大会に向けてまた頑張ればいいじゃない」


「そうそう!」


 ちーちゃんが呆れと戸惑いを半々にして言い、ゆうくんももげるかと思う勢いで首を縦に振っている。それでもわたしの涙は止まりはしなかった。


「変えられると思ったのに……変えられるはずだったのに……これだけやって結局変えられないの? あの未来を」


「未来?」


「柔道を諦めて高校を中退して引きこもりのニートになって漫画とアニメとゲームに溺れてぶくぶく太った醜い豚になって株での小遣い稼ぎに失敗して洒落にならない借金を背負って無残に死んじゃう、あの未来を」


「いやちょっと待って」


「変えられると思っていたのに!」


 わたしは座り込んだまま子供みたいに泣き続けた。わたしの頭上ではゆうくんとちーちゃんが困惑した顔を見合わせている(ような気配が感じられる)。


「エイラさん、百佳さんは……」


「わたしも聞いた話でしかなく、詳細は言えませんが、今回の事故は奥さまのトラウマを直接えぐることになったものと思われます。本人ももうとっくに忘れていたような、心の古傷を」


 非常に曖昧でほとんど何も説明していないに等しかったけど、ゆうくんとちーちゃんは一応それで納得したようだった。


「その古傷と『大歳の巫女』の神託が重なって……ってこと?」


「神託ねぇ」


 疑わしげに独り言ちるゆうくん。わたしのときもそうだったけど、ゆうくんはそういうオカルト的なあれこれを一切信じない、無神論者だ。わたしが神託を授かる「大歳の巫女」だともちろん知ってはいるけれど「歴史的、地域社会的にそういう設定になっているだけ」だと思っていて、本当に未来を知る力があるとはこれっぽっちも考えていない。一方のちーちゃんは神託かどうかはともかくとして「何かそういう特別な力がある」と、うっすらと感じ取っているようだった。

 ……その後、わたし達はタクシーで宮前町へと戻り、帰宅した。ゆうくんは自宅へ、わたしとエイラとちーちゃんは姫宮のお屋敷へ。わたしはすぐに布団に入って泣き寝入りした。でも日付が変わっても、一時になっても二時を過ぎても眠ることができず、不意に涙が流れてくる。それでも次第に意識が混濁してきてどうやら眠ったらしいけど……

 ――暗闇を切り裂くように強烈に光る、自動車のヘッドライト。それに照らし出されているのは「善那悠大」、前世のわたし……いや、違う。服装が違い、年齢が八歳くらい違い、体重が何十キロも違う。光に照らし出されているのは二三歳の「善那悠大」ではなく、一五歳の今のゆうくん。そのゆうくんが驚愕に見開いた目で見つめているのは自動車を運転する「姫宮百佳」……いや、違う。服装が違い、年齢が八歳くらい違い、体重が何十キロも違う。ハンドルを握り締めているのは、ぶくぶくと太った醜い顔を歓喜と狂気に歪ませた「姫宮百佳」じゃなく、今のわたし。

 自動車を運転してゆうくんを轢くわたしと、わたしの運転する自動車に轢かれるわたし……「善那悠大」? ゆうくん? 二つの視線が入り混じっている。わたしが自動車にはね飛ばされ、両脚を圧し潰されてその身体を宙に舞わせ、それと同時にわたしがアクセルを踏み込んでわたしを自動車ではね飛ばしてそのまま自動車ごと空中に飛び出して、わたしとわたしが同時に着水し、生身のわたしは川底に沈んでコンクリートブロックに頭をぶつけてその頭部を微塵にし、自動車に乗っているわたしは着水の衝撃で砕けたフロントガラスで顔をずたずたに切り刻まれて――


「――!」


 そこで目を覚ましたわたしは自分が眠っていたことを、夢を見ていたことを自覚した。全身が汗で濡れ、パジャマが湿って重く、気持ち悪い。気持ち悪い……吐きそうだ。上体を起こしたわたしは吐き気を必死に堪え、その波が過ぎ去るのをただ待った。

 一体どのくらいの時間そうしていたのだろうか。多少は気分がマシになったのでもう一度横になって眠ろうとする。でもなかなか眠れず、眠ったとしても見るのはさっきと同じ悪夢だった。今度は高校三年となった「善那悠大」を三四歳の「姫宮百佳」が自動車で轢き殺そうとしている。「善那悠大」が今のゆうくんとなり、「姫宮百佳」が今のわたしとなる。わたしがわたしを自動車ではね、バックで戻って倒れたわたしをタイヤで潰し、前に進んでわたしをタイヤで潰し、またバックで戻ってわたしをタイヤで潰し――それが何度も何度もくり返される。お願い、もうやめて、と潰されるわたしが泣き叫んで懇願しても自動車は止まらない。お願い、止まって、と自動車を運転するわたしが泣き喚いてもこの身体は何一つ自由にならず、過去の惨劇を再現し続ける。

 わたしが目を覚ましてようやくその悪夢は終わったけど、それは別の悪夢の始まりに過ぎなかった。再三悪夢にうなされて眠るのが恐くなったわたしは布団の上で身を起こし、その夜を過ごすこととする――時刻はもう五時で、外は明るくなりつつあったけど。






 時刻は朝の七時過ぎ。寝不足の頭には脳みその代わりに腐ったスポンジが詰まっているかのようで、ろくに思考が回らない。布団から抜け出たわたしは昨晩は入らなかったお風呂に入り、髪を洗い、顔を洗い、汗を流し……温浴によって血流が脳にも回るようになって、普通にものを考えられるようになった気がする。汗と一緒に悪夢やマイナス思考を洗い流そうとし、一定の効果はあったみたいみたいだった。もちろん完全にじゃなく、陰鬱な気持ちは続いていたけど。


「おはよう」


「おはようございます」


 ダイニングキッチンに顔を出すとエイラが朝ご飯を用意しているところだった。


「ちーちゃんは……この時間だからまだ寝てるか。ゆうくんは?」


「今日は姿を見ていません。それと萬田先生には先ほどわたしから連絡をしました。『姫宮先生は体調不良で今日は大会の引率ができない』と」


「そう、ありがとう」


 ゆうくんが出場しないのにインターハイの予選に行ったって意味がない……じゃなく。柔道部のみんなには悪いけど今は心身ともに絶不調で、こんなときに予選の試合を見たりしたら余計に悪化しかねない。家で一人ゆっくりと気持ちの整理をし、今後を考える時間が必要だった。


「どうぞ召し上がってください」


「ありがとう、いただきます」


 エイラの用意した朝ご飯を味わうわたし。よく考えたら昨日の夕方にちょっとおやつを間食したくらいでそれから何も食べておらず、自分で思っていたよりもずっとお腹が空いていたらしい。満腹となるのに珍しくご飯をお代わりしなければならなかった。


「ごちそうさま、美味しかったわ」


「お粗末様です」


 食後のお茶を飲み、ゆっくりとした気分に浸るわたしとエイラ。お風呂に入ってさっぱりとし、ご飯をしっかりと食べて満腹となり、熱々のお茶を飲んで身体を温め……ネガティブな思考が大分払拭されて前向きになれているように感じられる。身体のコンディションは心理状態に直結するとはいえちょっと単純すぎないだろうか、わたし。でも後ろ向きにうじうじと考え込んだって良いことは何一つないんだからと、開き直ることとする。


「……今回の事故は非常に不運なものでしたが、一週間ほど大人しくしていればゆうくんは柔道部に復帰できます。柔道のような格闘技をしていればこの程度の怪我はよくあることです」


「うん、判っているつもり」


 エイラは慰めの言葉を口にし、わたしもひとまずは同意する。ゆうくんは怪我を負ったけど、前世の「善那悠大」のように再起不能となったわけじゃない。一週間ばかり激しいスポーツをしなければそれで完治する程度のものだ。怪我を負ったのも高三じゃなく高一、日本一を目指す機会はこれから何度でもあるはずだった。


「多少の共通点はあったかもしれませんが、前世と同じ出来事がくり返されているわけではありません。今進んでいるのは前世とは違う道筋で、至る結末も前世とは全く違うものとなるでしょう」


「うん、判っているつもり」


 違う道筋をたどり、違う結末へと至る――そうでなければならなかった。そうでなければ何のためにわたしは時間を遡行し、同じ時間をくり返しているというのか。そして、まだ手遅れでも何でもない。安静にしてさえいればゆうくんは再び柔道ができるようになるのだから。


「うん……まだ充分取り返しはつく。今回のインターハイは残念だったけど」


 わたしはテーブルに突っ伏した。インハイ出場、日本一を目指してあんなに頑張っていたのに、その努力を誰よりも知っていたはずなのに、出場の機会をこのわたしが潰してしまったのだ。自己嫌悪のあまり死にたくなってくる。


「いっそゆうくんが責めてくれるなら、泣き言を言ってくれるならまだいいのに」


「何も言わないでしょう。むしろ『ただの事故なんだから気にしなくていい』と奥さまを慰める方かと」


「まず間違いなくそうなるわね」


 ゆうくんに気を遣われたら自己嫌悪がさらに募ることは必定で、「お願いだからやめて」と土下座したくなってしまう。むしろわたしがゆうくんを慰めないといけないんだけど「加害者の分際でどの口で」という問題があった。傷心のゆうくんをどうやって慰めるか、ゆうくんから奪ったものをどうやって埋め合わせたらいいのか――思い悩むわたしそのとき得られる天啓、これこそ神託!


「そうか、親子丼で!」


「それはあらゆる意味で間違いです」


「なんでよ! 傷心の男の子にはこのおっぱいこそ最高の癒しじゃないの!」


 とわたしは自慢のおっぱいを誇示し、エイラは見慣れた呆れた顔となる。


「言葉でいくら謝罪したって意味なんかない、誠意とは行動! 行動とは親子丼!」


「前半はともかく後半がおかしいです、それと頭も」


「なんでよ! ここは一発、ゆうくんの見果てぬ夢を叶えてあげることでわたしの誠意を示すべきじゃないの!?」


「落ち着いてください。そんなことをしたらラブコメな青春がそこで終わってしまって愛欲と情欲に溺れたエロ漫画な日々が始まってしまいます」


 エイラの指摘にわたしは「むう」と唸ってしまう。


「そもそも奥さまの償いにちーちゃんを巻き込むべきではないのでは?」


「むう、確かにその通り……それじゃわたしとエイラが身体を使って?」


「エロ漫画な発想から離れてください」


 エイラは疲れたような顔でため息をつく。むう、と唸るわたしだけど確かに「ラブコメな青春」と「ヒロインの母親と肉体関係」はどう考えても両立しなかった。いい考えだと思ったんだけど、易きに流れる発想だったかもしれない。


「奥さまが一人だけで考えていても絶対に間違いなく確実にろくなことにはなりません。ゆうくんと向き合い、しっかりと話し合うべきかと存じます」


 ちょっと……いや、かなり引っかかりを覚えたけどエイラの言うことももっともな話だった。ゆうくんの気持ちを無視してわたしが楽になりたいだけの償いを押し付けても有害無益というものである。


「うん、確かにその通り。ゆうくんとしっかり話し合って、その上で肉体関係を求められたらちゃんと応えてあげるってことで」


「違う、そうじゃない。……話し合いにはわたしも立ち会いますから」


 とエイラはこれ見よがしにため息をついた。まあ、それを拒絶する理由はわたしにはない。勇気が必要だったけど決心が鈍らないうちにと、わたしはゆうくんとまずは電話で話をすることにした。


『はい、もしもし』


 コールすること数回、ゆうくんの声がスマートフォンから聞こえてくる。


「もしもし、ゆうくん? おはよう」


『おはようございます』


 ゆうくんの声と一緒に聞こえてくる誰かの声。ゆうくんはどうやら人がいっぱいいる場所にいるようで……


「ゆうくん? 今どこにいるの?」


『……ええっとですね、その、武道館に』


「もしかしてみんなの応援?」


『はい! それに次の大会を見据えて偵察も兼ねて』


 なんだ。ゆうくんは次を考えてもうとっくに行動を開始している。いつまでも布団の中で自己憐憫に浸っていたわたしとは大違いだ。


「そう。話があったんだけど、それじゃ夕方戻ってからね」


『はい。夕方には戻ります』


 そこで通話は終了し……わたしの視線はスマートフォンに固定されたままだった。――何かが、おかしい。ゆうくんと言葉と態度に違和感を覚えているけど、それを明確に言語化できない。多分ゆうくんは嘘をついている。でもそれが何なのか……


「ちーちゃん?」


 そのとき電話がかかってきて、相手はちーちゃんだ。わたしはすぐに電話に出た。


「もしもし?」


『お母さん? もしかして今でかいのと話してた?』


「そうだけどって、今ゆうくんと一緒にいるの?」


『うん、今県立武道館』


 驚きと戸惑いにわたしは首を傾げてしまう。


「どうしてそんなところに、ゆうくんが出場するわけでもないのに」


『出場するわよ、あいつ』


「はい?」


『怪我のこと、誰にも言っていない。予選に出場する気満々でいる』


「な……」


 衝撃のあまり思考回路がフリーズし、再起動までに多少の時間が必要だった。


「そんな!! どうして! 今ここで無理をして怪我が長引いたり癖になったりしたら!」


『それこそ取り返しがつかない、オリンピックだって諦めることになるかも――って、わたしも一応説得はしたわよ。でも止められなかった』


「止めなさいよ! 何としてでも!」


 焦燥のあまり怒鳴り散らしてしまうわたしだけど、ちーちゃんは「そうは言ってもねぇ」と軽く肩をすくめるだけだ(なんかそんな感じがした)。


『全部判っていて、それでも出るって言っているんだし、止めようがないじゃない』


「とにかくもう一度説得して!」


 わたしが必死にお願いしてもちーちゃんは「えー」と面倒そうに言うばかり。


「ああもう、この子は……!」


 わたしはちーちゃんとの通話を終わらせ、ゆうくんに電話をした。でも何度コールしてもゆうくんは電話に出ようとしない。くそっ、無視するつもりだな! それなら萬田先生に電話して事情を説明して……いや、だめだ。あの昭和脳のことだ、「捻挫くらいで棄権していてどうする」とか言って、出場を認めるのが目に見えていた。もう直接行って、無理矢理にでも止めるしか手がない。


「エイラ、車を出して! すぐに県立武道館に!」


「判りました、行きましょう」


 エイラは既に自動車のキーを手にしている。わたし達は走って車庫に向かい、自動車に飛び乗った。自動車は県立武道館を目指して疾走し、爆走する。高速道路を使えば県立武道館までは一時間で行けるはずだった。

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