2話

「わしは、幼い頃に、おっ母に死に別れたのじゃ。それから、お前と同じように、さらわれて売り飛ばされた。十二のときじゃ」と、酔いで充血した眼を猿丸に向けて牛王は言った。

牛王は、ふらふらと立ち上がりおぼつかない足取りで、さっき自分が棚の上に置い仏像の顔のところまでくると、再びそれを持ち上げて

「本当に良くできておる。しかも、こうしてよく見てみると、おっ母の顔に似ているように思えてくる」

「ぬしのおっ母が、そんな美形なわけはあるまいが」と、座ったままけなす猿丸の言葉にはとりあわず、

「見れば、見るほど、おっ母に生き写しだ。おっ母、久しいなぁ」

牛丸は、仏像の頭部を両手で持ったまま腰を下ろして、その顔に頬ずりしていたが、やがて、その頭部を自分の顔の横に抱え込むようにして寝入ってしまった。

「なにが、おっ母だ。顔なんて覚えておらぬくせに。第一、仏様は男じゃないか、なぁ牛王よ」と、猿丸は呼びかけたが、相手はすでに眠りこけている。

「この顔は、やっぱり男だとも」と、猿丸は、牛王が抱え込んだ仏像の頭部を離れて覗き込みながら、酒をぐいぐい飲み続けた。

「そういえば、この顔、わしにも見覚えがあるわい」

猿丸は、酒の入った椀を手に、しばらく考えこんでいたが、やがて、

「そうじゃ、奴はあの人買いじゃ」と、うなずくと、猿丸は憎々しげに仏像の顔を睨みつけた。そうして睨んでいると、仏像もまた憎々しげに猿丸をにらみ返しているように感じられた。

「あ奴に瓜二つじゃ」

猿丸は、さらに酒をあおりながら、何度も頷きながら濁った眼で仏像に視線を据え続ける。すると、仏像の顔は、さらに憎しみを増したように猿丸をにらみ返し、しかも、口元には薄ら笑いさえ浮かべているように思えた。

「やっぱり、奴だ。畜生、あのときの恨みは忘れまいぞ」

仏像を睨み続ける猿丸の脳裏には、幼い頃に売り飛ばされて後、奴卑として過ごした日々が駆けめぐっていた。猿丸を買い取った太夫は、顔が気に入らぬといっては打ち据え、働きが悪いといっては打ち据え、毎日のように猿丸を打擲した。

「おのれ、おのれ」

そのとき打たれた頭に、肩に、背中に、いっせいに痛みがよみがえった。

もはや、猿丸の目は血走っていた。猿丸は、手を腰の鉈にかけながら、憎々しげな仏像に膝でにじり寄っていった。

「おのれ、よくも打擲しおったな。そうじゃ、あ奴はあのときに、確かに討ち果たしたはずじゃ」

眼を閉じた猿丸の脳裏には、太夫を鉈で打ち果たした昔の光景が、まざまざとよみがえった。安堵の息をついて、開いた猿丸の眼に、さらに憎し気に睨み返す仏像の顔が写った。口元は、先ほどにも増して猿丸をせせら笑っているようにさえ見えた。

「おのれ」

猿丸は、思わず腰の鉈を抜いて、仏像の頭部に振り下ろした。その一撃で、感情の堰が破れ、猿丸は何度も何度も鉈を振り下ろした。

しばらくして、肩で息をつぐ猿丸の膝に、ゆっくりと生温かいものが流れてきた。

不審に感じた猿丸が、もう一度仏像を見ると、鉈でめった打ちにしたはずの仏像は、いまや穏やかな表情に戻り、その横に、牛王の血塗れの頭部があった。

しばらく、凝然と血塗れの牛王の頭を見ていた猿丸は、やっと我に返り、

「ひっ、牛王」と、腰を抜かして立ち上がることも出来ずに後ずさりした。

「わ、わしじゃない、わしじゃない」

猿丸は、そうおめきながら、なんとか立ち上がると、洞から一目散に逃げ出した。


寺が頼んだ仏像が奪われたというので役人が派遣され、村人を使って山狩りが行われた。

一人の小柄な男の死骸が谷底で見つかったのは、それから数日後のことであった。おそらく崖から足を滑らしてのことであろうとされた。しかし、洞窟と仏像は、ついに見つからずじまいであった。(了)


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萬華仏 肩ぐるま @razania6

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