光差す未来


 そして、リアンは私をボートに乗せてくれた。

 湖面を吹き抜ける爽やかな風が頬を撫で、空を映し出す水面に浮かぶ私たちは、まるで空を飛んでいるよう。動くボートの上から水の中に手を入れると、ひんやりと気持ちいい水が柔らかく掌をすり抜けていく。


 楽しくてつい日傘をクルクルと回すと、リアンは楽しそうに声を上げて笑った。

 リアンの漕ぐボートはスイスイと進み、対岸の林や花畑をボートの上から眺めた。料理長が用意してくれたお茶とお菓子をボートの上で食べ、初めて湖上でのお茶会もした。

 二人きりで過ごす湖での時間は、私に信じられない幸福感をもたらした。


 

「どうして初めに言ってくれなかったの?」

「だって……覚えていないと思ったし、覚えていたとして、貴女にとってどんな思い出になっているか不安だったから」


 湖の真ん中に浮かぶ小さな島にボートを寄せて、砂浜に腰掛けた。対岸にいる護衛騎士たちが大きく手を振っていて、なんだか嬉しくて私もそれに手を振って応えた。はしゃいでいる自覚はある。でも楽しい。


「私は何も知らされていなかったから……」

「私たちが殺されたと信じていたんだね」

「……」

「意地悪な侍女だ」


 リアンは私の髪を一房掬い上げ、唇を寄せた。


「リアン」

「美しい髪だね」


 カッと顔が熱くなる。そんな事は、この国に来て初めて言われた。


「蛮族の証なのでしょう」

「エラ、自分で貶めては駄目だよ」

「……そうね」


 リアンの少しだけ咎めるような言い方に素直に頷くと、私の返事に気を良くしたのか、足を前に投げ出し深く息を吐き出した。その表情は晴々としている。リアンも対岸の騎士たちに手を挙げ応えた。

 その中に、あの身体の大きな騎士の姿が見える。いつも陰からそっと見守ってくれていたあの騎士は、周りの誰よりも大きく両腕を振り、なんだか楽しそう。


「……あの騎士」

「え?」


 私が指し示す方向を見たリアンが、少しだけ眉根を寄せた。


「前に、一人になった私についてきてくれたわ」

「そうか……私が指示したわけではないけどね」

「そうなの? 会って挨拶したいわ」

「必要ないよ」


 なんだか不機嫌そうな声に顔を見ると、リアンは面白くなさそうな顔で口を尖らせている。


「リアンの護衛騎士なのでしょう? 私のことも気に掛けてくれているなら挨拶くらいはしたいわ」

「そのうちね」

「そのうち?」

「今は二人で過ごしているんだ、帰ってからでも遅くないよ」


 そう言うとリアンは立ち上がり、足元にあった枝を拾い湖に向かって投げた。クルクルと回り遠くまで飛んだ枝が、湖面に波紋を描く。

 湖を眺めるように立つリアンの広い背中は、なんだかこれ以上その話をしたくないと言っているようだ。


「怒ってるの?」

「怒ってないよ」

「……拗ねてる?」

「拗ねてない」

「じゃあどうしたの? ねえ、リアン」


 立ち上がり、その顔を覗き込むように横から回り込むと、やっぱりなんだか眉根を寄せて不満そうな顔をしている。騎士と挨拶をしたいと言ったのがそんなに気に食わないのかしら。

 じっと見つめる私の視線に耐えかねたのか、リアンは口元を手で覆うと小さく言葉を漏らした。


「……貴女は昔、身体が大きい人をかっこいいと言っていた」

「え?」

「私は背は伸びたが、思うように筋肉はつかなかったんだ」

「……」


 そう言いながら、リアンの耳がじわじわと赤くなっていく。

 ――ちょっと待って、私が身体の大きい人が好きだと言ったから会わせたくないと、そういうこと?


「……そんなこと言った覚えはないんだけど」

「言ったよ。あの時の私はまだ小さかったんだ。だからよく覚えてる」

「……みんな子供だったから」


 当時、私は同じ年頃の子と比べても背が低くて、背の高い人を羨ましいと思っていた。もしかしてその時の言葉を気にしているのだろうか。

 その後もあまり背が伸びなかった私からすると、今のリアンはとても背が高くて身体もがっしりとしていて十分素敵なのに。


「……」

「……笑わないでくれ」


 肩が震えていることに気が付かれてしまった。

 見上げるとリアンが拗ねたように顔を逸らす。そんな仕草すら可愛くて、我慢出来ずに声を出して笑ってしまった。

 だって、そんな子供の頃のことを持ち出すなんて思わなかったから。


 私にあの身体の大きな騎士を会わせたくないってこと?

 私が身体の大きな人が好きだと言っていたから? 悔しいってこと?


 声をあげて笑う私を驚いた表情で見ていたリアンは、やがてつられて一緒に笑い出した。

 肩を揺らして笑う私をふわりと腕に閉じ込めて、身体を小さく揺らして笑う。

 その森のような優しい香りに閉じ込められて、じわじわとしたおかしさから、段々胸の奥がふわふわとくすぐったく変化していく。

 私のことを思ってしてくれたこと全て、こんなにも気持ちを向けられて大切にされていたということに、気が付かなかったことが本当に悔しい。

 

 ――本当に、私のことをどれだけ思ってくれているんだろう!

 

 そんな、言い表せない身体の奥から湧き上がるような喜び、幸福感、愛おしさ。私を優しく包んで、明るく照らしてくれる。


「……私を、ずっと覚えていてくれたの?」

「もちろん」

「王女だといつ知ったの」

「成人してから。一応一国の王太子だからね、私の下に妃候補の姿絵がたくさん送られてくるんだよ」

「その中に私のものが?」

「うーん、正確には違う。初めに来たのは君のお姉さんのものだ」

「お姉様の……」

「でも、もしかして、と思ったんだ」

「瞳の色ね」


 私生児の私は、侍女だった母と同じ真っ黒な髪色をしている。兄姉たちは皆、父や王妃たちと同じ燻んだ金色や栗色の髪をしていて、真っ黒な髪の私はいつも奇異な目で見られたけれど、瞳の色は父と、兄弟たちと同じ、灰がかった紺青色だ。


「海の底の色だ」

「『遥かなる雲の先』で出てくる色ね」

「そう……船が難破して投げ出された主人公が迷い込んだ海の底。冷たく暗い海の底だけど、唯一ある色彩が主人公を救うんだ」

「リアンは救われた?」

「そうだよ。……貴女に救われた」


 当時、私たちの国の国交は断絶していた。リアンたちが城にいたという事は、私の知らない何かがあったのだろう。国交が回復し私たちの婚姻が進められたけれど、リアンは私を妃に迎えるために、何かを犠牲にしたのかもしれない。


「深い海の底に投げ出されても、私の心はいつだってこの色彩に救われた」


 リアンの長い指が私の顎をそっと掬い、顔を近付ける。間近でリアンの瞳を覗き込んで、やっぱり美しい色だと思った。


「リアンの髪の色は変わってしまったのね」

「うん」

「瞳の色は変わらないわ」

「覚えてた?」

「もちろんよ」


 長い指がふわりと唇を撫でる。


「……エラ、口付けしても?」


 銀色のサラサラとした髪が私の頬に触れる。リアンの息が唇にかかった。

 熱い息に、私の身体も熱を帯びる。


 返事を待たずに、リアンは私の唇に優しく口付けを落とした。

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