秘密の友人たち
「どうかした?」
ぼんやりと景色を見ていると、向かいに座る王太子が声をかけてきた。
朝早くから用意された馬車に乗り、私たちは城から少し離れた湖にやって来た。小さな屋敷だと言っていたけれど、それでも十分に豪奢で立派な建物だ。ここに来るまでに乗った馬車もとても乗り心地がよく、私がこの国に来た時のものとは比べ物にならなかった。
「どうとは」
「なんだか心ここにあらずだ。先ほどから話しかけているの、聞いてた?」
「なんとなく」
「なんとなく」
王太子は声を出して笑った。そこで怒らないこの人はすごい。
昼食を終え、王太子に連れられて屋敷の庭にある四阿にやって来た。目の前には大きな湖が広がり、空の色をそのまま映したような青い湖面に雲や湖畔の木々が映り込み、まるで鏡のようだ。
「ここの屋敷の使用人たちは最低限にしているから、人目を気にせず好きに過ごしていいよ」
「……ありがとうございます」
「湖を囲むように散策路があるんだ。それからボートもある。乗ったことはある?」
「……ボートには乗ったことがありません」
「そうか! それは楽しみだな。水面が美しくて気持ちがいいよ」
嬉しそうに笑う王太子の表情に、腹の底にじわじわと罪悪感が募る。自分で書いたこととは言え、ここまでしてくれるとは思っていなかった。それに、初めて見る湖が……思っていたよりずっと、大きかったのだ。
そのことがひやりと、私の気持ちを凍らせる。
「……水は、苦手なのです」
「苦手?」
城の池とは違うことくらい想像できたはずだ。でもまさか本当に連れて来てくれるとは思わなかったし、王太子自らボートを漕ぐなんて誰が思うだろう。
「折角連れて来てもらいましたが、水は苦手なのです。ですからボートは」
「私が漕ぐから心配ないよ」
「そうかもしれません。でも、楽しめるとは思えません。……見ているだけでいいのです」
そう言うと、王太子は黙って私をじっと見つめた。そんな瞳で見つめられるのは初めてだ。王太子のその瞳に一体どんな感情が隠されているのか、何も読みとれない。居心地が悪くて視線を逸らし湖を眺めた。
「……溺れたことがあるから?」
「!」
ぽつりと零されたその言葉に、景色に向けていた視線を王太子に戻した。
木漏れ日を浴びた王太子が私を見ている。真っ青な瞳が陽の光を受けて、海のように……あの日の水面のようにキラキラと輝いている。
「……調べたのですか?」
「いいや」
「誰かが何か話しましたか」
「誰も、何も」
自分でも声が固くなったのが分かる。膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「溺れたから水が怖いわけではありません」
「そうか。では、嫌な事を思い出す?」
「何を……」
「貴女にとって辛い思い出?」
王太子の表情は決して揶揄うようなものではない。けれど、その憐れむような視線に、私はイライラした。
「殿下にお話するようなことではありません」
「どうして?」
「面白くもない話ですから」
「面白い話が聞きたい訳ではないよ」
「話したくないと言っているのです!」
自分でも大きな声で驚いた。こんな風に大きな声を出したことはない。
何てこと、しかも王太子に向かって!
慌てて謝罪しようと立ち上がろうとすると、それよりも先に王太子が私の前に回り込み床に膝をついた。
「殿下! おやめください!」
「……エラ、あの後何か言われたんだね」
慌てて王太子を立ち上がらせようと腕に触れるとその手を取られた。優しく、けれど強く私の手を握りしめ包み込む。
「……あのあと?」
「貴女が池に落ちて溺れてしまった後だ。貴女の無事を確かめられないまま、私たちは国に帰還したから」
王太子の瞳があの日の水面のようにゆらゆらと揺れている。
何を言ってるの? あのあと? 帰還?
……私たち?
「思い出してもらえないのは何か理由があるのだと思って。確かに、私の髪の色は成長と共に変わったが」
王太子は、私の手を解くようにそっと指を絡めた。冷え切った私の指先に、王太子の熱い指先が触れる。
「いつも遊びに来ていただろう? お気に入りの場所だと言って、あの庭の池のほとりに」
目の前に真っ青な空が広がる。真っ青な空、その空の色を映し出した水面。日差しは暖かかったけれど、まだ水の温度は冷たくて。
「私たちと遊んでいて足を滑らせた貴女が、桟橋から落ちて……すぐに助けたんだけれど、意識が戻らなかった。戦況が変わり私たちは国に返されたが、貴女の事は最後まで教えてもらえなかった。貴女があの国の王女だと知ったのはもっと後の事だよ」
脳裏に蘇る、あの眩しい日々。キラキラと光を反射する水面のように、私の中でいつまでも美しく輝く宝物のような日々。
眩しい金色の髪の男の子――大好きだったあの子。
――私がまだ十歳の頃。
城の離れにあった使われていない塔に、当時、同じ年頃の男の子たちと数人の大人がいた。
見た目が私たちと違う彼らは「ほりょ」だと使用人が話していた。
まだ小さな彼らがどうして戦争に巻き込まれていたのか当時の私には分からなかったけれど、彼らは決して不当な扱いを受けていた訳ではなく、ただその場に閉じ込められているだけだった。
離れの傍にある池は、当時の私のお気に入りだった。父の書庫からこっそり本を持ち出し侍女たちの目を盗んで部屋を抜け出していた私は、その池のほとりに立つ木の下で、いつも一人読書をしていた。
そしてそこで初めて、彼らに出会った。
金色の髪の男の子は、一人で本を読んでいる私を見つけて目を見開いた。真っ青な海のような瞳を輝かせて、私が読んでいる本を嬉しそうに眺めた。
「……読む?」
そう声をかけると瞳をキラキラさせて頷いた。
すぐに打ち解けた私たちは、それから毎日一緒に並んで本を読み、日が暮れるまで楽しんだ。時にはこっそりお菓子を持ち出して、本を読みながら一緒に食べた。
初めの頃は一緒に遊ばなかった他の子たちもやがて一緒に過ごすようになり、読書だけではなく追いかけっこや木登りもするようになった。彼らの名前は今でも覚えている。一人ひとり、眩しい笑顔の彼らを、私はとても愛していた。
同年代の友人がいなかった私の、秘密の友人たち――。
「……池に落ちてしまった貴女を助けて大人を呼んで……青い顔をした大人たちに抱えられて連れて行かれた貴女が一体誰だったのか、私たちは知らなかった。無事かどうかだけでも知りたかった。ずっと、探していたんだ」
王太子が私の頬を柔らかく包み込むと、その指先が濡れた。
――涙?
「エラ……私の事を覚えている?」
『――かわいそうに、姫様のせいであの子たちは皆殺されましたよ』
『姫様をたぶらかしたと、陛下が激怒されて』
――違うわ! あの子たちは何も悪いことしてない! どうしてそんな!
『姫様がもっと大人しくしていれば』
『王族なら王族らしく振舞えばいいのです』
『私たちの目を盗んでいなくなって、我儘な振る舞いをされるから』
『かわいそうに、皆苦しんで殺されましたよ……』
『恐ろしい、何と恐ろしい……』
『姫様のせいで……
姫様のせい……
悪い子。姫様は悪い子。我儘な子――』
「私の……、私のせいで……」
「違うよ、君は何も悪くない」
「みんなひどい目に遭ったって……!」
「エラ、君を助けた後、僕たちはみんな無事に国に帰れたんだよ。ひどい目になんて遭っていない」
「……!」
両手で顔を覆っても、声が漏れてしまう。
私のせいで殺されたと何度も聞かされた、あの男の子。私の大切な友人たち。苦しんだと聞かされて、聞いてもいない彼らの叫び声が耳をつんざいた。
どうして私だけ何の罰も受けないのか、毎日泣いて父に会わせてくれと訴えても聞き入れてもらえなかったあの頃。父はその後すぐに戦場へ赴き、会うことなく儚くなった。
「……エラ」
王太子の優しい声。顔を覆う私の手を、上から優しく包む暖かな掌。
……分かる訳ない。
幼かった私たちが成長して、声も変わって髪の色まで変わって。……意地悪だわ、分かる訳ない!
「……リアン」
王太子の、リアンの名前を呼ぶときつく抱き締められた。硬くて熱い身体からは、森のような香りがする。その逞しい身体に腕を回して、私はぎゅうっと抱きついた。
「……やっと呼んでくれたね、エラ」
掠れた王太子の声が耳にかかり、ちゅ、とこめかみに柔らかく口付けが落とされる。
「迎えに行くのが遅くなってごめん……もう、大丈夫だから」
大きな掌が頭を撫で背中を撫で、熱い体温が私を包む。
私はずっと、リアンの腕の中で泣き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます