林檎
「凄いわ、何て綺麗なのかしら!」
王太子に誘われるまま初めて宮の庭に出た。
そう、初めて。
「……初めて?」
そう言った王太子の低い声がまたもの凄く邪悪だったけれど、そんな事が気にならないほど美しい庭だった。
きっちりと整えられているのではなく、自然に、けれど色とりどりの花が咲き乱れ、青く美しい池もある。
「まあ! この花も咲いていたのね、残念だわ!」
花が終わってしまった枝を見てそう声を上げると、王太子も残念そうに眉尻を下げた。
「貴女に見てもらうために作ったんだが、まさか庭に来るのが初めてとは……」
「私のために?」
「貴女は花が好きだから」
「……そう、ですけど……」
――分からない。
どうしても思い出せない。私はこの人に会ったことがある? でも確かに、王太子は私のことをよく分かっているし、好きなものも知っている。朝食だって、私の好きなものばかりだった。
ここまで来ると、何としても自力で思い出したい。答えを教えてもらうのは最早なんだか悔しい。
四阿に移動して、花々を愛でながらお茶を飲む。王太子はワゴンを押してきた侍女長を早々に下がらせ「今度は私が淹れよう」と紅茶を準備してくれた。
……悔しいが美味しい。私より上手かもしれない。
楽しそうに終始ニコニコしている王太子の顔を見つめ、昨日からずっと考えている疑問をぶつけてみる。
「……国交回復の晩餐会で会いました?」
「残念ながら私は参加してないんだ」
「私の国へ来た視察団の中に?」
「私がいたらすぐにバレただろうな」
「留学してきた?」
「ああ! そうか、留学で貴女と出会うのも素敵だな」
――埒が開かない。
「……そもそも本当にお会いしたことがあるのですか?」
「あるよ! 私にとって忘れられない思い出だ」
「でも、殿下のことを忘れるなんてあり得ないわ」
「殿下呼びも気になるけど、どうして私の事を忘れる事があり得ないのか、教えてほしいな」
「顔が好みなので」
「……貴女はそういうところが凄いよね……」
王太子は両手で顔を覆ってしまった。俯くと、その銀色の髪がサラサラと風に靡く。髪から覗く耳が赤い。
「照れてます?」
「照れてます」
何それ可愛い。
「言われ慣れてるでしょう」
「……貴女に言われるのは全然意味が違う」
「どうして?」
「どうしてって……」
顔を上げ口元を両手で隠したままこちらを睨むように見る王太子の目許は赤い。
そんな潤んだ瞳で睨まれても怖くないし、なんだか恥ずかしくなるからやめて欲しい。
結局何のヒントも得られずのらりくらりと躱す王太子に質問することを諦めて、私はもう少し庭を堪能することにした。そんな私を、王太子はにこにこと嬉しそうに眺めるだけだった。
庭を歩き風景を眺め、紅茶を楽しみ、この国に来て初めて何にも追われないゆったりとした気持ちになれた。そよぐ風が気持ちいい。四阿では本を読む王太子が時々ワゴンに乗っているお茶菓子を皿に乗せ、目の前に置いてくれる。
よく考えると、王太子にサーブさせたりお茶を淹れさせたり、物凄く不敬だ。だというのに全くそれを感じさせないほど自然にそれを行うこの人を前に、私もつい流されている。こんな姿を誰か他の人に見られては後で何を言われるか分からない。
きょろきょろと周囲を見渡すと、遠く離れた場所に身体の大きな騎士の姿が見えた。
当然だけれどこちらをじっと見つめている気がして、きゅっと緊張に身体が硬くなる。
そんな私に気が付いた王太子が私の視線を追い、ぐっと低い声を発した。
「姿を現すなとあれほど言ったのに」
「護衛の方ですか?」
「そう。私の護衛騎士だよ。身体が大きいから貴女が驚いてはいけないからね」
「紹介してもらえるのですか?」
「ん? うん、そのうちね」
王太子が片手をすっと上げると、その騎士はすぐに姿を消した。
「そう言えば文官や他の方にもご挨拶をしていません」
「気にしなくてもいいのに」
「そういう訳にはいきません。私もこれから公務を行う中で、誰が誰だか分からないのは困ります」
「公務に取り掛かる時にちゃんと紹介するよ」
すました顔でお茶を口元に運ぶ王太子の顔を眺めながら口に運んだマドレーヌは、……絶品だった。
*
「明日は何をしようか」
いそいそとベッドに上がり、長い足を投げ出して寛ぐ王太子はベッド脇のテーブルから読みかけの本を手に取り開く。湯浴みの後の銀色の髪が、まだしっとりと濡れている。
本当にここで一緒に寝るつもりらしい。
「追い出されると困る。私の寝室はここしかないのだから」
「それでは私が」
「貴女の部屋もここしかない。客室も駄目だ」
「……」
何もしないと言うのだからこれ以上断れない。そもそもここは私の知る城ではないから、あの部屋が空いてるから使える、あなたがあちらを使って、とか言えないのだ。もの凄く不利だ。
「殿下、髪がまだ濡れています」
「貴女はいつになったら私の名前を呼んでくれるのかな」
「もう、シーツが濡れるので、ほら身体を起こしてください」
湿ったシーツなんて嫌だ。
むっつりと口を尖らせた王太子の腕を引っ張って起こし、背後からタオルでその髪の水分を取る。キラキラと輝く銀色の髪は、触ると思っていたよりも柔らかい。決して、髪に触ってみたかったからとかではない。断じてない。
「貴女が拭いてくれるのなら濡れたまま出てくるのも悪くない」
「駄目です。風邪をひきますから、ちゃんと自分で拭いてください」
王太子は私といる時、この話し方がすっかり定着していた。侍女長や使用人、時々訪ねてくる王城の執務を担当しているであろう文官たちと話す時は、王太子然としているのだけれど。元来、優しい人なのだろう。
「本当はね、この休暇を利用して、貴女と二人で旅に出るのもいいかと思っていたんだ」
「旅?」
「そう。貴女に海を見せたかった」
「海」
西から陸続きで移動してきた私は、海を見たことがない。私の国にも港はあるけれど、私自身、城から出たことがほとんどなかった。だからこの国に来るまでの道中は十分刺激的で楽しいものだった。
「……海は、本でしか見たことがありません」
「うん、『遥かなる雲の先』に出てくる海の描写は素晴らしいよね」
「あの本をお読みになった?」
「読んだよ。私の大好きな本だ」
幼い頃から読んでいた子供用の物語。美しい海の挿絵とキラキラとした野山が出てくる物語は、私をいつでも素晴らしく美しい世界に連れ出してくれた。誰にも邪魔されない、汚されることのない私だけの世界がそこには広がる。
紙が擦り切れるほど繰り返し読み、この国へ嫁いで来た時に持って来た、数少ない私の宝物だ。
「……私も、好きです」
「うん」
「……本が」
「ぶふっ、分かってるよ」
くつくつと肩を揺らして笑う王太子の髪を、何だか悔しくて少しだけ乱暴に拭いた。
「浴槽はもう少し大きいものに変えようか」
乱暴に拭かれても全く気にしない様子の王太子は、楽しそうにそんな提案をしてくる。
「今の大きさで十分ですよ」
「でもあれは一人用じゃないか」
「一人で入るから十分ですけど」
「ええ~」
ええ~、じゃないわ! 何言ってるの!?
「明日、香油やせっけんの他にも色々持ってくるように言ったから、好きな香りや気になるものがあったら言うといいよ」
「今ので十分です」
「選ぶのも楽しいじゃないか。私も気にしたことがないから楽しみなんだ。今の香りは好き?」
「……甘くていい香りです」
「甘いのが好き?」
「……すっきりしてるのもいいかもしれません」
「そうだね。色んな香りを頼んだから、お気に入りを見つけよう」
「……はい、できましたよ」
タオルで髪の水分を取り終わると、王太子がこちらを振り返り嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
「……次は、ちゃんと自分で拭いてくださいね」
「ええ~」
楽しそうに笑うその顔をなぜかまっすぐ見ていられなくて、タオルを片付けるためにさっとベッドから降り浴室へ向かった。
なぜか、胸がざわざわする。
その理由は、まだ分からない。
*
翌朝、目を覚ますと侍女長が変わっていた。
この国に来て以来、ずっと私にしきたりやら国の文化の違いを論い、私の国を遠回しに野蛮、未開拓などと貶めていた侍女長。一緒になって私の事を見下していた侍女たちも総入れ替えされた。
他国から嫁いできた妃なんてこんな扱いだろうと思い特に何も言わなかったのだけれど、どうやら王太子が追い出したらしい。
朝食を運んできた侍女たちはとても感じがよく、一人ひとり挨拶をすると丁寧に朝食を用意して去って行った。
「とても親切な人たちだわ」
「大丈夫そう?」
「……十分過ぎるほどです」
そう言うと王太子は一瞬だけ悲しそうな表情を見せた。
「貴女はもう少し、自分自身を大事にしてほしい」
「大事に?」
「我慢する癖がついているようだから」
「あまりこだわりがないだけです」
「こだわりと意見は違うよ。主張してもいいんだ。貴女にはそれが出来るんだから」
私たちはまたベッドで朝食を摂っている。これがこの国のスタイルなのかしら。
王太子は器用に林檎の皮を剥きながら小さなナイフで食べやすくカットしていく。王太子なのに果物をカットしてると思いながら手元を見ていると、その小さくカットした林檎をフォークに刺して私に差し出した。
「?」
「ほら、口を開けて」
「は?」
「美味しいよ。私も食べたから」
「……」
殿下はニコニコと笑いながら小さく切った林檎を私の口元に運ぶ。
……食べさせてくれるらしい。自分で食べられるけど。
私は目の前に差し出された小さな林檎をパクッと口にした。
「!」
「? なんでふは?」
「いや……」
「おいひいれふ。ほほのふには、りんほ、おいひいのへふね」
「……うん、いろんな種類の林檎があるよ」
「ほんほれふか!?」
もぐもぐ、シャクシャクと林檎を食べて飲み込むと、王太子が目を細めてこちらを見た。何だか目元が赤い。変なことしたかしら。
「……もう少しね、抵抗するかと思ったんだ」
「抵抗?」
「……何でもない」
そう言って王太子は、赤い顔で自分も林檎を口にした。
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