眩しい朝と贅沢な湯浴み


 ――閉じた瞼の向こうにほんのりと陽の光を感じた。

 扉の前で誰かが話している声がする。

 重たい瞼をなんとか開けて周囲を確認すると、天蓋に掛けられたカーテンは閉められ、隙間から陽の光が差し込んでいた。

 今は何時だろう。昨晩隣にいた王太子の姿はない。

 ほっとして息を吐き出すと、ノックもなくガチャリと扉が開く音がした。侍女長だろう。また遅くまで寝ていることを叱責される。私は慌てて身体を起こした。よほど疲れていたのか、とにかく身体がだるい。


「……エラ」


 その声にびくりと身体が固まった。

 天蓋のカーテンを開けて現れたのは侍女長ではなく、昨日私の夫となった王太子。ベッドの上で驚き固まる私を見て、王太子は眩しいくらいの笑顔を見せた。


「おはよう。よく眠れたみたいだ」

「お、おはようございます……?」


 寝起きに美丈夫、心臓に悪すぎる。


「もう起きる? 朝食を持ってこさせよう。それから、シーツも取り換えるから侍女を室内に入れるよ。これを羽織って」

「は、はい」


 寝起きで頭が回らない。言われるままに手渡されたガウンを羽織ると、ガウンから知らない香りがした。深い森のような、しっとりとした香り。


「私のだから大きいが、今はそれくらいがちょうどいいだろう」

「え?」

「ちょっと失礼」


 そう言うと、王太子はベッドに膝だけ乗り上げ私をガウンで包み抱き上げた。


「……! で……っ」

「しっ、……少し我慢してくれ」


 王太子はガウンを私の頭にも被せて視界を覆った。横抱きにされ怖くてまたしがみつくと、大きな掌が背中をゆっくりと宥めるように撫でる。

 ノックの音がして王太子が返事をすると、何人かが部屋へ入室してくる気配がした。侍女だろう。


「早く取り替えろ。それから朝食はここに運ぶように」

「……承知いたしました」


 侍女長の固い声がする。他の侍女だろう、何人かがベッドの寝具を整えている音がして、すぐに息を呑む気配がした。


「なんだ」


 王太子の低い声が響く。


「い、いいえ……」

「早く取り替えて出て行け。妃はまだ疲れている」

「王太子殿下、恐れながらエラ王女の湯浴みとお着替えを」

「王太子妃だ」


 大きな声ではないのに、王太子の強く低い声が侍女長の言葉を遮った。凄い、あの侍女長を黙らせるなんて。


「……失礼いたしました」

「妃の湯浴みと着替えは手伝い不要だ。湯の用意だけ浴室にしておいてくれ」

「しかし」

「分かったら下がれ」

「……はい」


 何人かの足音と衣擦れが遠ざかり扉の閉まる音。そして静まり返る室内。


「……あ、の」

「うん、もう大丈夫だ」


 しがみついていた王太子の胸から顔を上げると、覆っていた視界が開けた。目の前には何故か嬉しそうに微笑む王太子の顔。驚いて身を引こうとすると「危ない」と更にギュッと抱きしめられた。


「そんなに暴れると流石に落としてしまう」

「暴れてません!」


 ふふっと笑うと、王太子はまた私をベッドに下ろした。


「寝具は取り替えた。あとは朝食が運ばれてくるだけだ」

「あの、私は……」

「ん?」


 よく見ると王太子はゆったりとしたシャツにトラウザーズ姿。これから公務を行う人の姿ではない。


「……状況説明をお願いします」


 至極真面目に言っただけなのに、王太子は一瞬間を空けて、声を上げて笑った。


 *

 

 王太子は新婚だからと、一週間の休暇をもぎ取ったと言う。婚姻が決まってから一年、何の音沙汰もなかった人とは思えない。

 私のそんな気持ちが伝わったのか、朝食を食べながら王太子は苦笑した。


「連絡がちゃんと取れなかったのは申し訳ないと思っている。どうしても貴女を迎え入れるために身の回りをきれいにしておく必要があったんだ」

「女性問題ですか?」

「違う」


 私たちは今、ベッドのヘッドボードを背に並んで腰掛け、小さなトレーに載った軽食を食べている。お行儀が悪いけれど、いつもと違うことをしているということがちょっと楽しい。

 絶対にそんな事おくびにも出さないけれど。


「昨日もそうだったが、貴女は私のことについて何か間違った情報を吹聴されたのではないだろうか」

「間違い?」

「しきりに女性のことを口にしているだろう」

「殿下の姿を見て納得しただけです」

「それだよ! ああもう、殿下はやめてくれないかな……、ねえ、私の事を何という風に聞いていたんだ?」


 ベッドの上に長い足を投げ出し、軽く交差させ寛いでいる姿はきっちりとした礼装ではなくても、とても麗しい。朝日を浴びて煌めく銀色の髪が少し動くたびにさらさらと揺れて、どうしてもその姿に見入ってしまう。


「……女性には不自由していないと」

「それは一体どういう……」

「ですから、この婚姻自体が政治的なものであって私である必要はないと。昨日も申し上げたように」

「それで側妃の話になるんだな」


 はあ、と深いため息をつく王太子の横顔を、サンドイッチを頬張りながら眺める。


「どうしても貴女と私の初夜を邪魔したかったのだろうな……私も昨夜は、ここに来るまでに色々な罠が仕掛けられていたから」

「罠」

「うん、罠」

「詳しくお聞きしても?」

「……面白がってるだろう」


 バレてる。昨日から少ししか話していないのに、王太子はもう私の性格を把握している気がする。


「とにかく、私には女性問題などないし懇意にしていた女性もいない。私が妃にと求めたのは貴女だけだ」

「昨日お会いした時はそんな雰囲気ではありませんでした」

「貴女がどんな心つもりであの場にいたのか計りかねたから……政治や義務なんて言葉を出してしまって、申し訳ないと思ってるよ。……緊張していたんだよ、これでも」


 目元をほんのり赤く染め、横目でこちらを見るのはやめてほしい。目が覚めても美丈夫は心臓に悪い。


「……貴女はどうしてそんなに私を拒むんだ?」


 ごくり、と喉を鳴らして紅茶を流し込んだ王太子は、モジモジとカップを弄りながら俯いた。

 何この人、頭に耳が見える気がするわ。犬かしら。大型犬?


「……この婚姻に愛や恋を求めていないので。子を生すのが私である必要がないのなら、寝所を共にする必要はないかと」

「子を生さなければ貴女の立場は危うい」

「それは構いません。……そんな理由で産むべきではないですから。それに私は、生まれた子が幸せになると到底思えません」

「何故?」

「私がこの国の出ではないから」

「……優しいね」


 王太子はふわりと笑うと、私の髪をそっと耳にかけた。その仕草にかっと顔が熱くなる。

 やだ、私きっと顔が赤い。

 ぱっと顔を逸らすと、かけられた髪がまた肩に落ちて私の顔を隠す。


「苦労させたくないだけです」

「うん、貴女も辛かっただろうから」

「……それ」


 隣に座る王太子を振り返る。

 こちらを見る優しい表情。柔らかな視線。この顔を忘れるなんてあるだろうか。


「会ったことがあると?」

「あるよ。……教えないけど」

「ヒントくらい下さってもいいじゃないですか! いつ頃のことなのかとか……」

「うーん……、やっぱり駄目。自分で思い出して」

「意地悪だわ!」

「そうだよ。覚えておいてね」


 王太子は笑いながら食事の済んだトレーを私の膝の上から取りあげると、部屋の隅のワゴンに乗せる。


「さて、暫くは私と貴女の蜜月を邪魔する者はいないから、これから何をしようかな」


 王太子はそう言うと、満面の笑みで私を振り返った。


 *


「はあ……いい気持ち……」


 ほんのりと白く色付いた温かなお湯が張られた浴槽には、ピンク色の花びらが浮かび香りの良い香油が垂らされ、広い浴室は花の香りで満たされている。


 王太子の強めの圧が込められたせいか、この国に来て初めて浸かる浴槽はとんでもなく贅沢で素敵だった。

 浴室の大きな窓から見える青い空が、私の気持ちをどんどん軽くしてくれる。

 こんなお風呂に毎日浸かれるのなら、王太子と寝所が同じなのも悪くないかもしれない。しかもこうして、侍女たちに監視されることなく一人でのびのびと入れるのだ。

 

 あの後、ベッドの上での朝食を終えて今日は何をするか、という話になり、私はダメ元で湯浴みをしたいと希望した。

 この国には浴槽はあるのに湯を張る習慣がなくてずっと物足りないと話すと、笑っているのに邪悪な雰囲気を出すという器用な表情をした王太子が「この国も浴槽に湯は張るよ」と教えてくれた。

 そうなのか。

 侍女長の嫌がらせだったのだろう。嫌がらせにしては地味すぎて、気が付かなかったけど。普通に文化の違いだと思っていたわ。

 王太子はすぐに侍女長を呼び、しばらく廊下で長いこと話している様子だった。その後すぐに浴室に湯が運ばれ、侍女の手伝いを全て断り、こうして一人のびのびと湯に浸かっている。最高だわ。

 用意された石鹸もいつもと違う気がする。肌がしっとりして泡ももっちりしている。

 うん、なるほどね。

 

 心行くまでお風呂を堪能しやっとのことで浴室から出ると、ベッドの上で本を読んでいた王太子が顔を上げた。

 ずいぶん待たせてしまったことに、慌てて膝を折り謝罪する。


「申し訳ありません、ゆっくりしすぎてしまって」

「そんなことないよ。私もこんなにゆっくり本を読むのは久し振りでとても楽しかった。気持ちよかった?」

「はい、お陰様で」


 にこにこと笑顔で嬉しそうに話す王太子からは、取り繕っているような気配は感じない。本当にそう思ってくれているのだろうか。

 

「そのドレスは?」

「私の国のドレスです。一人で着るのが楽なので」

「そうか、凄く素敵だね。似合っている」

「え」


 その言葉に思わず驚いてしまった。異国の服を蔑むような眼で見る人ばかりのここで、そんなことを言われたのは初めてだ。

 

「この国のドレスを着るべきなのでしょうけど」

「そんなことはないよ。貴女の着たい服を着るといい」

「でもこれしかないので」

「え?」


 あ、しまった。また邪悪な笑顔の王太子を召喚してしまった。

 王太子は「そうか、そうか」と何度か頷くとベッドから立ち上がった。


「あとで貴女の部屋も確認させてもらいたい」

「か、確認とは」

「私が贈ったドレスが好きではないのかと思っていたけど」

「ドレス?」

「うん、大丈夫。貴女の反応で大体分かったから」


 分かったって何が?

 王太子は「ちょっと待ってね」と言うと困惑する私を置いて廊下に出た。外にいるであろう騎士に何事か指示をして戻ると、私の手を取りちゅっと指先に口付けを落とした。


「!?」

「それじゃあ、ちょっと散歩に行こうか」

 

 美しく笑う王太子の表情は、晴れやかで眩しかった。

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