Prologue2

 その日も何一つ変わらない朝であったと鴻紀は振り返って思う。前日は、いつものように夕餉を済まし、いつものように舌先三寸の文章を書いて、床に入ったはずだ。日が昇り、定時に目を覚ました鴻紀は、背骨を伸ばしてその違和感に首を傾げた。いつもより身体が軽く、関節が鳴らないのだ。健康なのは良いことだと、浴衣を着替えようと立ち上がった。

「……おや?」

 いつもより視線が低く感じられた。たとえ、成長期を疾うに過ぎたはずの鴻紀でも、まだ身長が縮む程ではないだろうと再度首を捻った時、隣の部屋から男の悲鳴が聞こえた。

 茶の間で葉織と鴻紀は食事を取るわけでもなく、食卓に向かい合っていた。

「つまり、俺と鴻紀さんが入れ替わったと......?」

「そう考えるのが最も無難だろうねぇ。いやはや、中身が変わるなんてまるでにでも騙されたようだ。それにしても細いな、ちゃんと食っているのかい?」

 茶を寄越すように下女に言い付けている鴻紀は、葉織の容姿にしては太々しく、下女も戸惑った様に番茶を準備している。

「どうしてそんなに落ち着いていられるんですか!」

「人知を超えた力が働いているのなら、致し方ないだろう。幸い今日、明日と仕事は無いのだからそう慌てなくてもいいではないか。ひと眠りしたら戻っているかもしれないだろう」

「だからって」

「では、どうするのだい? 医者にでもいけば、冷やかすなと叱られるか精神疾患を疑われるだけだ」

 こんな非科学的な状況でも冷静でいられる鴻紀を前にして、葉織は口を閉ざすしかなかった。元号が明治になってからは、科学が進歩し、電気が通る様になった。電燈によって以前よりも怪奇事件が新聞に取り上げられることは無くなったはずであった。抑々、妖怪などのあんな眉唾は虚構だと信じ切っていた葉織だが、鴻紀を見ていると東亰府にもまだ妖が残っていたのだろうかとさえ考えさせられた。

「そうですね。では、部屋で大人しく......っ!」

 一瞬、葉織の身体が大きく傾いた。鴻紀は魂の違う自分の身体を支えた。葉織からすれば、何とも気色悪い構図だが、身体はどうにもならない。

「どうしたんだい、葉織」

「いえ......目眩がしただけです」

 鴻紀の腕を離れ、瞼を閉じるもあまり現状は変わらなかった。まさか、鴻紀は毎日こんな目眩に悩まされているのかと思えば、不安そうに慣れ親しんだ顔が自分を覗いていた。

「風邪をひいた記憶もないのだが......どんな状況だい? 病的な吐き気はあるかい?」

「いえ、何だか......頭が凄く疲れると言いますか、凄い速さで回っている気が......。泉のように言葉が湧いて来るんです」

「ほう、言葉が?」

 船酔いにも似たそれは、徐々に波が引いていった。それでも頭の回転が止まる訳では無いが、きっと慣れてきたのだろう。

「俺で言うと、良い被写体を見つけたみたいな気分です。描きたくて描きたくて仕方ない。何かに描き留めておかないと、身体の許容量に追いつかない」

「嗚呼。そう言うことか」

「何がですか?」

「所謂、職業病だろう。僕達の魂は入れ替わったとて、身体的な特徴は残っているのだろうね。身体に染みついた感覚は中々抜けないものだ」

 鴻紀はひゅうと首を外に投げた。そして、感嘆の声を洩らした。

「何か違って見えるんですか? 俺の眼は」

「嗚呼、違うね。面白いじゃあないか、葉織」

 正しい器の時には気づかなかった何かを互いに感じていた。鴻紀は淡く口角を上げた。葉織は鴻紀の子供のような顔を見て、悪寒を感じざるを得なかった。

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