Prologue1
茶の間には、朝餉を準備している下女がいた。下女に挨拶をして、新聞を読みながら茶を啜る。暫くしてぽーんぽーんと二度時計が鳴って、家主が降りてきた。
「おはようございます、
「嗚呼、おはよう。今日も天気が良いなぁ」
鴻紀が座布団に腰を下ろすと、下女が朝食を並べ出した。今朝は、大根の味噌汁に出し巻卵、茄子の浅漬けらしい。
「そうだ、葉織。今度、学校の成績物産展があるらしいね。たまにはお前の絵を観させてもらおうかな」
「......結構です。貴方にそんな時間は無いでしょう。また編集の方にどやされますよ」
「編集を出すとは厭らしいね。いやはや、何だい。反抗期かい?」
「やめてください。抑々、俺は貴方の息子でもありませんし」
「僕もまだ父親と名乗りたくはないね。所帯を持つより、仕事をしている方が余程楽しい」
鴻紀はわざとらしく溜息をつくと、香の物をちょいと摘まんだ。小気味良い音が食卓に響く。
二人の関係性は、実に曖昧であった。肩書きで言えば、家主と下宿している書生と単純明快だ。しかし、二人は対等であった。家主の鴻紀は小説家であり、また帝国大学で教鞭を執っている。雑誌に連載を持っていたり、文学の講義をしたりと、当人は興味ないようだが社会的に地位のある男だ。一方、書生の葉織は西洋画を専攻している美校生である。技術はあれど、革新的な表現技法は評価が分かれてしまい、将来への悩みの多き青年であった。葉織にとって鴻紀はパトロン的要素もあるが、文学論を交わしたり、美術論に花を咲かせたりすることで、互いに刺激を与えながら創作活動をしていた。
「原稿、進んでいないんですか?」
大きく溜息をついた鴻紀につられるように葉織も息をついた。
「お前のような書生は成長ばかりするのに、僕はそういかなくてね」
「......そんなことありませんよ。貴方の作品は多くの人から求められているじゃないですか」
本人の意志はどうであれ、鴻紀が流行作家であることは否めない。葉織の絵は、まだ社会的に評価されていない。描きたい物を描くだけでは、社会は葉織を受け入れてくれなかった。社会と自身にある溝に悩まされると同時に、画工としての才能の有無を疑う様になっていた。
「大衆に受ければいいと言うものでもないのだよ」
「受け入れられなくては始まりませんよ。作家は食えてなんぼですから」
「冷たいね、やはり反抗期じゃあないか。ほら、もう時間だろう。早く学校へ行きなさい」
「だから反抗期では......。はぁ、......ご馳走さまでした」
葉織は諦めたように立ち上がって、裙を直した。その背中を見送りながら鴻紀は、先の言葉を反芻していた。
鴻紀が小説家として名を上げたのは、十年ほど前のことだった。社会制度への不満や戦争に進みだした恐怖を、物語によって社会に訴えた。現在の鴻紀からすれば何とも浅識で拙い作品だったが、新鮮だと大衆に受け入れられた。しかし、それもひと昔前の話だ。今、彼は社会的身分の保証もされ、不満はあれど身を切る程では無い。何処ぞの哲学者のように腸捻転を起こす事も無ければ、心理学者のように入水をしたくなる日も無い。日々美味い食事を口にし、将来ある若者に知識を与え、下宿生を揶揄って楽しむ。充分な日々であった。「
「さて、そろそろ僕も部屋に戻るとしよう。手が空いたら珈琲でも淹れておくれ」
下女に告げて、羽織を着て自室に戻る。文机には三行しか書かれていない原稿用紙が待っていた。
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