Prologue1

 葉織はおりは、寝ぼけ眼で制服に腕を通した。東京美術学校の制服は、数百年前の日本文化を受け継いでいだ奇異な形状をしている。流行を嫌ったデザインに辟易したのは、入学して初めの数週だけで、疾うに慣れてしまった。帯を締めていると、視界に画紙が入った。夜半までかけて描いた絵は作品とは言えない中途半端な出来になっている。思わずついた溜息のせいで、帯を締めすぎてしまった。億劫な朝である。

 茶の間には、朝餉を準備している下女がいた。下女に挨拶をして、新聞を読みながら茶を啜る。暫くしてぽーんぽーんと二度時計が鳴って、家主が降りてきた。

「おはようございます、鴻紀こうきさん」

「嗚呼、おはよう。今日も天気が良いなぁ」

 鴻紀が座布団に腰を下ろすと、下女が朝食を並べ出した。今朝は、大根の味噌汁に出し巻卵、茄子の浅漬けらしい。

「そうだ、葉織。今度、学校の成績物産展があるらしいね。たまにはお前の絵を観させてもらおうかな」

「......結構です。貴方にそんな時間は無いでしょう。また編集の方にどやされますよ」

「編集を出すとは厭らしいね。いやはや、何だい。反抗期かい?」

「やめてください。抑々、俺は貴方の息子でもありませんし」

「僕もまだ父親と名乗りたくはないね。所帯を持つより、仕事をしている方が余程楽しい」

 鴻紀はわざとらしく溜息をつくと、香の物をちょいと摘まんだ。小気味良い音が食卓に響く。

 二人の関係性は、実に曖昧であった。肩書きで言えば、家主と下宿している書生と単純明快だ。しかし、二人は対等であった。家主の鴻紀は小説家であり、また帝国大学で教鞭を執っている。雑誌に連載を持っていたり、文学の講義をしたりと、当人は興味ないようだが社会的に地位のある男だ。一方、書生の葉織は西洋画を専攻している美校生である。技術はあれど、革新的な表現技法は評価が分かれてしまい、将来への悩みの多き青年であった。葉織にとって鴻紀はパトロン的要素もあるが、文学論を交わしたり、美術論に花を咲かせたりすることで、互いに刺激を与えながら創作活動をしていた。

「原稿、進んでいないんですか?」

 大きく溜息をついた鴻紀につられるように葉織も息をついた。

「お前のような書生は成長ばかりするのに、僕はそういかなくてね」

「......そんなことありませんよ。貴方の作品は多くの人から求められているじゃないですか」

 本人の意志はどうであれ、鴻紀が流行作家であることは否めない。葉織の絵は、まだ社会的に評価されていない。描きたい物を描くだけでは、社会は葉織を受け入れてくれなかった。社会と自身にある溝に悩まされると同時に、画工としての才能の有無を疑う様になっていた。

「大衆に受ければいいと言うものでもないのだよ」

「受け入れられなくては始まりませんよ。作家は食えてなんぼですから」

「冷たいね、やはり反抗期じゃあないか。ほら、もう時間だろう。早く学校へ行きなさい」

「だから反抗期では......。はぁ、......ご馳走さまでした」

 葉織は諦めたように立ち上がって、裙を直した。その背中を見送りながら鴻紀は、先の言葉を反芻していた。

 鴻紀が小説家として名を上げたのは、十年ほど前のことだった。社会制度への不満や戦争に進みだした恐怖を、物語によって社会に訴えた。現在の鴻紀からすれば何とも浅識で拙い作品だったが、新鮮だと大衆に受け入れられた。しかし、それもひと昔前の話だ。今、彼は社会的身分の保証もされ、不満はあれど身を切る程では無い。何処ぞの哲学者のように腸捻転を起こす事も無ければ、心理学者のように入水をしたくなる日も無い。日々美味い食事を口にし、将来ある若者に知識を与え、下宿生を揶揄って楽しむ。充分な日々であった。「林垣はやしがき鴻紀」の名は独り歩きを始め、小手先だけの文章でも社会は受け入れるようになっていた。心の叫びを書いたのは、あの一度きりで他は只読者に急かされ書いていたのかもしれないと考える様になっていた。いつしか俗世に馴染み、自分の眼から見える世界は錆びてしまったのではと感じていた。

「さて、そろそろ僕も部屋に戻るとしよう。手が空いたら珈琲でも淹れておくれ」

 下女に告げて、羽織を着て自室に戻る。文机には三行しか書かれていない原稿用紙が待っていた。

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