【Side H】画工が見た文豪の世界

 敢えて言おう、無茶振りだ。若者いびりだ。俺は鴻紀さんのような社交性もなければ、振る舞いも出来ないのに。それなのに――。

 俺は一人、銀座の街を歩いていた。身体が入れ替わるという何とも妖に化かされた現象の後、鴻紀さんはにっこりと笑って頼み事があると言った。今日一日、部屋から出ないで、この怪奇現象が収まるのを待って居ようと思った矢先だった。

『葉織、貸本屋で頼んでおいた本を借りて来ておくれ』

 再度言おう、無茶振りだ。若者いびりだ。鴻紀さんは俺の身体をまじまじと眺めると、嬉々として平屋を飛び出していった。頼むから俺の身体で勝手な事をしないでくれと腕を伸ばしたが、どうにも器が違うと間合いが難しく、鴻紀さんを捕まえることは出来なかった。

「はぁ......」

 頭の中で星の様に流れる言葉を無視して、柳の街を歩いていく。しな垂れた柳は風に揺られて色気を撒き、さわりさわりと甘い音を立てて流れている。歩き慣れたはずの銀座の街がいつもより違って見えた。何倍も何倍も視覚からの情報が入ってくる。煉瓦造りの建物の質感も、補整された道を歩く足裏の感覚も、鉄道馬車の響きも、流れていく人の仕草も、全てが情報として言語化されていくように、頭の中で言葉が躍る。

「あの人はいつも、こんな世界を歩いているのか」

 五感からの情報全てが、文字という記号に還元されていて明瞭な枠を持って存在している。この人の目に入る物は全て意味を持っている、価値がある。これ程の情報が入ってくるのだから、あの人はいつもあんなに饒舌に話すのだろう。膨大な情報量に身体の許容量を越してしまいそうだ。

「林垣先生、お仕事ですか?」

 店への道を進んでいると帝国大学の制服を着た青年が俺に向かって頭を下げた。休日に声を掛けられるとは、随分と学生に慕われているらしい。勿論、俺も鴻紀さんを尊敬している。俺みたいな書生を応援してくれる懐の広さや社交性だけじゃなくて、社会的地位もある。自分の作品が社会に必要とされる人。『文豪』と将来呼ばれるであろう天才は、他人の心も容易に掴んでしまうのだろう。

「い、いえ。じゃない、......嗚呼。一寸、貸本屋に用があってね」

「何を読まれるのですか? 私もお供させてください!」

 熱心な瞳で見上げられるも、正直名前さえも分からない学生にうろつかれては困る。俺の演技では鴻紀さんの失態を招いてしまうだろう。丁重に断ろうと思うが、思ったように言葉が出ない。

「その......」

「林垣先生? 若しかしてご迷惑ですか?」

「いや!その!しかし、今日は貸本屋以外にも寄らねばならなくてね。ま、また今度にしよう」

 しどろもどろに答えれば、学生は不思議そうな顔をしながらも食い下がっては来なかった。曲がり角で学生と別れて、小さく息をつく。もし何か不備があっても、鴻紀さんなら後で何とかしてくれるだろう。それにしてもさっきまであんなに言葉が頭を舞っていたというのに、重要な時に出ないとはどういうことだ。やはり俺のような奴には「林垣鴻紀」という天才の器は大き過ぎるのだろうか。鉄道馬車の音を聞きながら歩を進めると、目当ての貸本屋に着いた。

 扉を押せば、ベルの音がした。埃っぽい本の香りが鼻腔を擽る。いつもなら咳き込んでしまうところなのに、安堵が胸に広がった。

「林垣様、お待ちしておりました」

「あ、......こんにちは」

「はい。こんにちは」

 洋装をきちと着こんだ老父に驚いて、素で挨拶を返してしまった。鴻紀さんだったらこんな簡素な挨拶はしないだろうが、老父はただ微笑み返すだけだった。

「今日は頼んでいた本を受け取りに来たのだが」

 自分より高齢の方に対してこんな口調で話すのは心苦しいが、鴻紀さんはいつも他人の身分なんて気にしないのだから仕方が無い。やはり老父も気にすることは無く、後ろにある棚から三冊取り出した。

「確かに」

 外国語の題が二冊と文芸雑誌が一冊。俺が一度も触れた事ないような本だったが、皮表紙の感覚が手にしっとりと馴染んだ。この人の手はいつもこんな分厚い紙を持っているのか。

「林垣さん。もし宜しければもう一冊、いかがでしょうか?」

 ずしりと重いそれらを持って、財布を出そうと思ったら、老父は別の棚からもう一冊取り出した。鴻紀さんから頼まれた本は三冊だったはずだ。渡された財布には、これからにでも行くんじゃないかというくらい入っていたため、雑誌一冊増やした所であの人は怒らないだろう。しかし、頼まれた物では無い上に自分の金でも無いため、どうするべきか思案していると

「宜しければ御目通し下さい」と論文集を手渡された。どうせ俺には分からないけれど、店主の眼もある為「はあ」と、間抜けな声を出して頁を捲る。知らない言葉や言い回しに首を捻りながらも羅列された文章を目でなぞっていくと、頭の中ですとんすとんと言葉が図のように整理されていった。

「いかがですか? 先日刊行されたばかりなのですが」

 頭に溢れて来る誰の物か分からない感情を吐き出すように息をついた。俺には内容の稀有までは判断出来ないため、無難に断ろうと思い口を開く。しかし、また思い通りにいかない。

「......どうして」

「大丈夫ですか? 林垣様」

「嗚呼......少し立ちくらみがしただけだ」

 店主を制して、再度断りの言葉を探すも何も見つからない。鴻紀さんには申し訳無いが、俺の健康上、仕方なく本を借りさせてもらおう。

「こちらの椅子でお休みになられますか?」

「いや、構わない。少し寝ていなかったからだろう。予約していた論文が届いたと聞いて、浮足立ってしまったのだよ。済まないね、心配を掛けて」

 腹を括ってしまえば、驚くぐらい口から言葉が零れていく。

「そうか」

 さっきまで言葉が出てこなかった理由が漸く分かった。

「是非、貸して頂こう」

 この人はいつも絶対に断らないのだ。自分の興味は、それこそ周りが引くくらい追及して、好奇心の元に自ら身を投げてでも学ぼうとしている。経験という唯一の体験を通して、言葉を得ているんだ。だから、鴻紀さんの中には俺には考えられない程の言葉が詰まっている。『天才』などという安い言葉で片付けてはいけない。他人と関わるという努力によって多くの情報を得て、それによって書かれた小説は人の心を捉えて当然だったのだ。

「それは良うございました。では、今日は四冊をお持ち帰り頂くということで」

「嗚呼。頼んだよ」

 次こそ店主に銭を渡して店を後にした。

 いつの間にか空の色が変わっていた。暖色が何色にも重なって、沈む太陽に揺れている。

「紅緋に、唐紅、山吹、金糸雀、あとは......瑠璃に、杜若、鳩羽に菫色......」

 描きたいと思う反面、書きたいと思った。絵の具を重ねて、目の前にある色を表現したいと思ったけれど、浮かぶのは言葉だけだった。今迄、目を通して感覚として焼き付けていたはずの色に名前がついて唯一の確かな物になっていく。空は時間によって消える事のない『名称』という枠で囲われていた。

 ――この色は俺の色なのか、それとも彼の色だろうか。

 俺の見ていた黄昏はもっと、曖昧で水彩画のように朦朧とした境界の無い空だったはずだ。空は明瞭に美しいばかりだった。

 ゆっくりと歩いて下宿先に戻る。家からは香ばしい魚の香りがして、隣家からは柔らかい煮物の匂いがした。そんな抽象的な匂いにまで感想が浮かんできて、思わず苦笑いが零れた。この人の身体は、五感の全てを言語化しようとしていた。何て、明瞭で芳醇な世界なのだろうか。あの人の見る世界は、こんなにも知識に溢れていて、言葉が舞っていて、それでいて判然としている。言葉の降る世界だ。そっと掌を見ると、俺の手とは違う所にが出来ていた。

「美味そうな匂いだ」

 これ以上の言葉はあの人だけが使える物だと、少しだけ口角を上げて茶の間に入った。夕餉は、秋刀魚の塩焼きらしい。

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