第4章-2

 世界は本当に上手くできている。まるで意地をはっているみたいに、人の都合のいいようにはできていない。

 それでも、一度決めた約束事なら必ず守る――そんな信念だけはあるようだった。寛容さはなくとも、律儀さだけは持ち合わせていた。

 ふとカスミは気になった。フリーペーパーの広告に、求人やバイトを検索するサイトが載っていたのだ。

 ダメ元でと思い、そのサイトにアクセスしてみる。最寄りの駅で検索してみると、近くで募集されているバイトの一覧がずらずらと表示された。

 だが、そこに書かれていた内容はフリーペーパーのものと大して変わらない。

 ――同じか……。

 そのとき、バッテリーの残量が二〇パーセントを切った。カスミは焦った。

 スマホがあったところで何が変わるというわけではないのに――極端に言えば、この世界では必要ないのに――カスミはえも言われぬ焦燥に駆られたのだ。

 そう言えば、元の世界でも、たびたび同じ感覚に襲われたことがある。スマホが使えなくなる恐怖――それは誰かと繋がらなくなることへの恐れ。

 今、この世界でカスミが感じている焦りはどこから来るものなのだろう。誰かと繋がれないという不安が、もう体に染みついてしまっているのだろうか。

 そんなふうに、カスミが焦燥の火に炙られていたときのことだ。同時に目についたものがある。発見と言ってもいいかもしれない。

 ――ウェブエントリー?

 電話をかけなくても応募できる?

 電話の向こうにいる人間に気づかれなくてもいい?

 それでも上手くいく保証はなかった。バイトに応募した人間を選考していく過程で――電子的なデータを処理する途中で――自分が切り捨てられる――情報が無視される――その可能性は大いにありえるのだ。

 それでもやってみる価値はある。

 ――やらないより、やった方がマシだ!

 カスミはウェブエントリーのフォームに入力していった。

 氏名は本名を使った。偽名を使うという慎重さがなかったというよりは、そのような発想自体が思い浮かばなかったのだ。

 同様に性別も住所もメールアドレスも、そして電話番号までも嘘偽りなく、ありのままに入力していった。

 唯一、嘘をついたのは――その条件だけは外すことができない――自分がこの世に生を受けた日、誕生日であった。

 だが、それさえも何月何日までは偽りなく入力してしまっていた。他に思いつく月日がなかったのだ。

 何月何日――これもただの数字の並びにすぎない。それでも、カスミには自分が誕生した日以外の月日に意味を持たせることなどできなかったのである。選択肢として表れる数字を適当にスライドしてみても、そこに決め手となるような何かは見つからなかった。

 だから、自然と――あるいは必然であったかもしれない――自分の誕生日を設定することに落ち着いたのだ。だが、さすがに生まれた年を正直に入れることはできない。そんなことをしてしまえば、エントリー前の段階で可能性はついえてしまう。中学生であるという事実によって、スタートラインから弾かれてしまうのだ。

 ――いったい何年生まれにすればいいんだろう……。

 成年と判断されるような年を入力すれば何も問題はない。

 ――でも、私は大人に見えるだろうか?

 気づかれないという、それ以前の問題はさて置き、自分の姿が確認されたとしたら――写真データを送る可能性だってある――どうしたって子どもにしか見られないだろう。

 ――高校生なら、なんとかいける……?

 カスミは逆算して何年生まれかを入力した。来年の春になれば、本当に新しい制服に袖を通すことになったはずなのに。

 ――こんな形で先取りすることになるなんて……。

 これで、すべてのフォームは埋められた。カスミという人間を表す限られた情報が――というよりはむしろ記号が――少しの嘘をエッセンスにして、そこにきれいに並んでいた。

 ――これが、私……?

 バッテリーの残量アイコンは残り三パーセントを示していた。

 ――何をためらってるの……?

 今はためらっているときなどではないはずだ。

 だが、送信ボタンを押すことができない。金縛りにあったみたいに、指だけが動かない。

 何を恐れているのだろう――。

 それはもういろいろなことだ。

 ――そうに決まっているでしょ!

 送信ボタンを押しても何も反応が返ってこなかったらどうする――。

 ボタンを押してもエラー画面が表示されたら、受け付けられなかったらどうする――。

 もし採用がかなったとして、本当に働くことができるのか――。

 ――まだまだある……。

 カスミの内側は、さながら思考と感情の大運動会の様相を呈していた。

 バッテリーの残量が二パーセントになった。

 カスミははっとした。このままでは可能性の確認すらできずに終わってしまう。

 そして、指は動いていた。送信ボタンを押していた。

 カスミは自分の意思で指を動かした覚えはなかった。まるで誰かに指示されるままに、体が動いてしまったようであった。

 スマホには確認画面が表示されていた。入力したカスミの情報がきれいに並んでいる。

 だが、カスミはその内容を最後まで確認することはできなかった。カスミの目の前で、力尽きたかのようにスマホの画面は暗くシャットダウンしてしまった。

 バッテリーも希望も空っぽになった瞬間だった……。

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