第4章-1
朝の喧騒が一段落し、通りに面した店のシャッターが幾つも上がりはじめた頃、カスミ達はようやく朝食を手にすることができた。
カスミはおにぎりを一つ、アキラは菓子パンを一つ、スーパーのカゴに放り込んだ。
「朝って、あまりお腹すかないよね」
アキラはそう言うと、小さく笑った。
――そんなはずない……。
こんな小さな身体をしていても、今は成長期だ。いつもお腹をすかせているに違いない。
――もっと、ご飯を食べたいはずだよ……。
カスミ達はビルの屋上に――アキラの住処に戻ってきた。
おにぎりをかじりながら、カスミはこの先のことを考えていた。この先のことといっても、喫緊の課題はもう目の前にちらついている。普段なら考えもしない――気にとめるはずもない――昼食をどうするのかという難題だ。
それをクリアしても、またすぐに次の問題が待ちかまえている。カスミが置かれている、のっぴきならない状況を解決する余裕など――時間的にというより、むしろ気持ちの上で――今は持てるはずがなかった。日常を過ごすという決まりきった小さな手順が、乗り越えなければならない大きな壁となって、次から次へとカスミの前に立ちはだかる。
アキラの満足そうにパンを頬張る姿を眺めながら、カスミはこの日常の小さな――だが、自分達の生命に直結している――課題の解決法を探っていた。
根源的な問題はお金がないことだ。財布の中身は硬貨だけになっていた。
いや――それはカスミ自身が作り出した制約かもしれない。昨日までの世界の倫理観にとらわれ、今いるこの世界にまで古いルールを持ち込んでしまった。頑なに新しいルールを拒み続けている。少なくとも今は……。
やがて打ちのめされることになるのかもしれない。まだ成長しきれていない――身体的にも、精神的にも――カスミにできることは限られている。この世界で――制限を加えられた世界で――カスミがやれることも限られている。
それらを身にしみて実感したとき、カスミは打ちひしがれ、世界の新しいルールを受け入れることになるのかもしれない。新たな世界と契約を結ぶことに――。
――でも今は、まだあきらめるときじゃない……。
私はまだ何もしていない、何も動いていない。
何ができるのか、考えてさえいないのだ――。
――じゃあ、私に何ができるというの……?
カスミの手に求人やバイトの情報が掲載されたフリーペーパーが握られていた。チラシやタウン誌などが置かれた駅前のラックに、思わず手を伸ばしていたのだ。
すでにパラパラとページはめくっている。そして、すでに希望は失っている。
高校生以上……年齢不問のバイトなど、どこにも見当たらなかった。そんな最低限の条件も書かれていない仕事もあったが、どう考えても、まともなものであるはずがない。
誌面には、他にもさまざまな条件が列挙されていた。
――要経験……。
中学生の私に、いったいどんな経験があるというのだろう?
仕事だけじゃない。人生の経験だって、ろくすっぽ積んでもいないのに。
――そう、どんなにうそぶいたって、大人をさげすんだって……。
私はまだ何も知らなくて、何の力もない、ちっぽけなただの子どもなんだ。
どんなにつまらない生き方をしている大人でも、取るに足らない人生を選択し続けてきた人間でも、経験だけはしてきた。いや、経験せざるをえなかった。鮮やかではなくとも、色とりどりの経験を。ただその一点において、今のカスミより少しはマシというものだろう。
フリーペーパーの掲載欄を見渡すと、まだまだ色んな条件が載っていた。中には信じられないようなものもあった。
――容姿端麗……。
何のために?
いずれにしても、カスミを阻む大きな障壁は、自分がまだ中学生であることに変わりはなかった。それに、世界がカスミに課した強大な制限もある……。
――とりあえず、ここに載っている電話番号にかけてみようか……?
幸いスマホはある。回線も生きている。
昨日の今日で、家族が自分のスマホを解約しているとは思えなかったし、根拠はないが今後も使い続けられるという予感がカスミにはあった。
契約自体が忘れられている可能性もある――。
心配なのは、むしろバッテリーの方だった。コンセントのないこの場所で、どうやったら充電することができるのだろうか。
スマホを充電する方法なんて他に幾つもあるはずだ。
――それなのに、私は他の選択肢を気にもとめないで、ここまでやってきてしまった……。
いや、後悔は後回しだ。今はそんなことを考えているときじゃない。
カスミは誌面に掲載されている電話番号を何度も確認した。菓子工場の製造ライン。経験はなくてもいいようだ。
――ここにかければいいんだよね……。
カスミは間違えないように、数字を一つ一つ慎重に入力していった。
指は震えていた。
ただ、電話番号を――不規則な数字の羅列をタップしていくだけのことが、どうしてこんなにも怖いと感じるのだろう。
電話番号を打ち終えても、カスミはしばらくスマホの画面を眺めていた。頭の中をいろいろな思いや感情が錯綜していた。
最もカスミを悩ませていたのは、やはり世界が自分にかけた足枷――。
はたして自分の声は、電話の向こう側にいる人間に届くのだろうか……。
凍ったように、スマホを見つめるカスミの横顔を、アキラは黙って見守っていた。今は軽口をたたくようなときではない。場を和ませ、空気をあたためる必要はない。そんなことは、子どもの自分にだって分かることだ。
今は声をかけるべきではない。そもそも、かけるべき言葉を持ち合わせていない。
カスミは画面に表示された通話ボタンをタップした。
――あっ……。
自分の意思で指を動かしたはずなのに、カスミはうっかり押してしまったと言わんばかりの表情を浮かべた。言い訳めいた思考が、まとまりのない言葉の波が、ピンボールの球のように頭の中を不規則に跳ね返っていた。
耳元では呼び出し音が鳴っている。電話の向こうに誰かが出たら、いったい何て言えばいいのだろう。そもそも、カスミの言葉にその誰かは反応してくれるんだろうか。
もしそうなったら、それは今のこの状況に劇的な風穴をあけてくれることになる。家に、家族に電話して、助けてと心の叫びを届けることができる。
――どんな仕組みで、そうなるのだろうか……。
声が電気の信号に変えられて別物になる。だから、相手は無視のしようがない。
そうなれば、少なくとも今のこの状況からは前進できる。面と向かって直接話すことができなくても、気づかれないという絶望的な状況に比べれば、どれだけ救いがあるだろう。
カスミはいろいろな理屈を――都合のいい妄想を――思い浮かべていた。
プルルルル……。
何度目のコールだろう。電話は一向につながる気配を見せない。
――まだ、会社は始まっていないのかな……。
それとも、バイト募集を担当している人間がたまたま席を外しているのだろうか。
カスミは電話をいったん切った。そして、あらためてかけ直してみる。指はもう震えてはいなかった。通話ボタンを押すことにも躊躇いはなかった。
予感があったのかもしれない。
――つながらない……。
ここに至って、カスミは分かりかけてきた……。
フリーペーパーのページを適当にめくり、目についた番号に電話をかけてみる。
もう先ほどのような恐れはなかった。別の意味で、そこに悲劇が待ち構えている予感しかなかったからだ。
リングバックトーンが耳の奥をただ揺らす。しばらくして、カスミはスマホをふせた。
――なんて手の込んだ仕組みなんだろう……。
世界は寛大さの欠片もなく、容赦なく、周到にその対象を打ちのめそうと用意をしている。
――人の心をよく理解している……。
どうすれば心が挫けるのかを――魂が砕かれるのかを――熟知している。
電話の向こうに、おそらく人はいるのだろう。忙しそうに働く多くの人が――。
――でも、気づかない……。
私はその存在だけでなく、かけた電話のコール音にさえ、気に留めてくれる者は誰もいないのだ……。
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