第3章-8
どこかの公園にでも一時的に退避するものとカスミは思っていた。だが、アキラが向かったのは、むしろ人が雑多に混み合うオフィス街――高層ビルが林立する駅前の一角であった。
アキラは建ち並ぶビルの中でも、ひときわ目をひく豪華なホテルの前に立った。
――やめて……。
無意識にカスミはそう祈っていた。しかし、その願いは届かなかった。
アキラは迷いも見せず、ホテルのロビーへと足を踏み入れていったのだ。堂々と、ずかずかと――。
信じられなかった。どうしたら、こんな豪華なホテルに平然と――なに食わぬ顔で――入っていくことができるのだろう。
カスミは気後れしつつ、ひたすらにアキラの後を遅れまいとついていった。
――こんなホテルに入ったことなんて数えるほどしかない……。
それは親戚の結婚式のときだった。あるいは、家族の誕生日のときだった。お祝いで豪華なディナーを食べにきたのだ。
――いつも、それは特別な日だった……。
そうでなければ、こんなホテルに寄りつくことなんてないだろう。
――こういうのを、敷居が高いっていうのかな?
ホテルの方が、私なんかに入ってほしくない――そう言ってるような気がするの。
住む世界が違う。相手から拒絶されている。
それはカスミ自身の思い込みにすぎない。相手が自分のことをどう思っているかなんて、本当には分かりようがないのだ。
こんなホテルに気兼ねなく入れるようになるには、特別な日に着飾って背伸びをするか、それとも、こんな場所にふさわしい立派な人間になるしかない。
それが、そのときのカスミに考えられる全てであった。
ホテルに合わせる、相手に合わせる――要は、自分自身をつくり変えていくということだ。
ロビーでは大勢の人間が行き交っていた。にもかかわらず、不思議とそこだけは、静かでゆとりある別の時間軸が、ホテルの朝を動かしているような気配があった。
どこにもあくせくしている人間はいない。駅前を行く人の群れとは、ずいぶんと印象が違うなとカスミは思った。
「こっちだよ」
アキラは左右に幾つもエレベーターが並ぶホールにやってきた。ひっきりなしにエレベーターが到着し、目まぐるしく宿泊客を吐き出していく。
ちょうど人が降りきって誰も乗り込もうとしないエレベーターがあった。アキラはカスミの手を強く引いて、扉が閉まりきる前に中へと滑り込んだ。
――そんなぎりぎりで乗らなくたって……。
ボタンを押せばまた開いてくれるのに。
その直後、カスミは、はっと思い至った。
いや、もしかするとアキラのその行動には深い意味があるのかもしれない。誰も操作していないのに――実際にはしているのだが、周囲にはそうと分からない――エレベーターが奇妙な動きをすれば、たまたまそれを見ていた人間に違和感を与えてしまう。そうなれば、余計な事態へと事は発展していきかねない……。
「ぎりぎりセーフだったね。やっぱり扉に挟まれるかどうかのタイミングは、スリルがあって楽しいよ」
そこには深い考えが……。
「急いでエレベーターに乗ったのって……」
「ああ、さすがに階段では無理なんだ」
カスミが意図した質問とは、ずいぶんとすれ違った答えが返ってきた。
――深い意味なんてなかったのね……。
結局は、まだまだお子様なのだ。
そんなふうに、カスミに冷ややかな目で見られているとはつゆ知らず、アキラはふんふふんと鼻歌交じりに十一階のボタンを押した。
――いったい、どこに行くつもりなんだろう……?
途中、どこかの階で誰か乗ってくるのではないかと心配していたが、朝のこの時間帯はロビーに下りようとする宿泊客ばかりなのだろう、目的の階に着くまでエレベーターは一度も止まらずにすんだのだった。
チンと軽快な音がした。高度に制御されたエレベーターは、停止したこともカスミ達に気づかることはなかった。
扉が開く。
――ああ……。
ここが、アキラが連れてきたかった場所なんだ……。
カスミはひどく納得できた。
そこには庭が広がっていた。一面にはられたガラスの向こう側に、芝生に覆われた春の庭が広がっていた。
よく手入れされた花壇には、季節の花々が微かな風に吹かれ揺れている。その向こうに小さなチャペルが、ささやかにぽつんと建っていた。
――そうだ、ここは……。
「お姉ちゃん、行こう」
アキラはカスミの手をとった。
「え、ちょっと……」
アキラはぐいぐいとカスミを引っ張っていく。躊躇うことなくガラスの扉の鍵を開け、外に出ようとした。
カスミは思わず手を引いて抵抗した。
「ちょっと待って。ダメだよ、勝手に入っちゃ」
「何かを盗むわけじゃないんだよ。花壇を荒らすわけでもない。花をもらっていくわけでもない。誰かに迷惑なんてかけない。僕達はただ、この景色を借りるだけなんだ」
特別にね――さもそれが自分達の特権であるかのように、アキラは付け加えた。
そう言われても……カスミは困惑しながらアキラに引っ張られていった。誰かに見咎められるのではないかと、この期に及んでなお、ありえない心配を抱きながら。
二人は可愛らしいチャペルの横を通りすぎていった。カスミにはもう分かっていた。ここがいったい何をする場所なのかを。
ホテルのガーデンウエディング。地上の喧騒から隔絶された天空の庭。この小さな教会で、たくさんのカップルが永遠の誓いを立てていったことだろう。
自分でも気づいていなかった。カスミはそのチャペルを憧れの目で見つめていた。
「その教会は偽物だよ。そこに神様はいない……」
――そこだけじゃない。どこにも神様なんていないんだ。
口に出してはいないのに、カスミにはなぜかアキラの心がそう訴えかけているように思えた。
アキラはカスミを庭の端まで連れていった。つまりは天空の庭が終わる、この世界の最果ての場所だ。
柵を越えて一歩前に進み出れば、真っ逆さまに奈落へと落ちていく。まるで天界の片隅から、うっかり足を踏み外した天使みたいに。
――そう、ここは世界を望む天界の庭……。
カスミはすっかり、そこから眺める景色に心奪われていた。自分の中に渦巻いていた、迷いや不安はどこかに行ってしまった。魂は波紋もたてぬ水面のごとく静まり返っていった。
「落ち着いた?」
アキラが声をかけてきた。
「うん……。とっても素敵な場所ね」
そう言うと、まるで自分が褒められたみたいに、アキラはくしゃっと顔を歪めて笑った。
「こんな場所、どうやって見つけたの?」
何気ないカスミの問いかけだった。だが、アキラの口からもれ出た答えは、カスミの手に負えるような代物ではなかった。
「お姉ちゃんとは少し違うのかな……」
成り立ちが……と、また心の声が聞こえた。
「気がつくと、僕はここに立っていたんだ」
――この世界にひとり、立っていた……。
カスミは思わずにはいられなかった。
いったい、あなたは誰なの?
と……。
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