第3章-5
根源的な問題は、その影さえつかましてはくれなかった。この不明瞭な事態が解決に至るはずもなく、それゆえ、その夜は就寝するほかなかったのである。
アキラはカスミにベッドを譲ってくれた。自身はというと、ビニールシートとやはりぼろぼろのブランケットをどこかから取り出してきて、迷いもなく床の上にそれらを敷いていった。
カスミはベッドに身を横たえた。正直なところ、毛羽立って、いたるところにダマができてしまった毛布に触れるのは抵抗があった。だが、実際にくるまってみると、毛布にはシミのひとつもなく、嫌な臭いもまったくしなかった。
――ちゃんと洗濯してるんだ。
カスミはそのとき、何気なくそう思った。それはある面では正しく、ある面では間違っていた。
自由の刑に処せられた人間の苦悩――それを知るには、カスミはまだその入り口にさえ立ってはいなかったのである。
ベッドに落ち着いて、これでようやく色々なことが聞ける――知ることができると、カスミは淡い期待を抱いていた。
「わからない……」
結論から言えば、肝心なところでアキラの口からもれ出る言葉は、ただそればかりだったのである。
人が忘れ去られる、気づかれなくなる――結局のところ、何一つその理由や原因は分からずじまいだった。そこにカスミは一筋の光明さえ見出すことはできなかった。
普段の生活――それをどれほど続けてきたのかは分からない――を通して、アキラがこの状況を打開するヒントをつかむことはなかったのだ。
聞けたことといえば、そのアキラの日常――どんなふうにこの孤独な世界で一日を過ごしているのか――ただそれだけであった。
そして、それさえもやがて猛烈な睡魔に襲われ、カスミの意識は唐突にぷつりと途切れていった。
遠くでアキラが何かを話し続けているような気がした。
――ずっと誰かとしゃべりたかったのかな……。
カスミは沼にはまった旅人みたいに、深い眠りの底に引きずり込まれていった。
翌朝、がばっとカスミは身を起こした。意識を取り戻したというのが正解かもしれない。
目覚めると、すぐさま厄介な問題が大挙してカスミを待ち構えていた。
顔を洗う。手洗いにいく。朝食を食べる――。
「その日の気分で、駅に行ったり、公園に行ったり――いろいろだよ」
アキラはこうも付け加えた。
「できるだけ朝早くの方がいいんだ。どこも通勤する人たちでごった返しになるから。落ち着いて顔も洗えなくなるんだよ……」
まったく困ったもんだ――そう言わんばかりの顔で、アキラは肩をすくめてみせた。
「お姉ちゃん、どこに顔を洗いにいこうか?」
通勤客であふれる駅――だいたいの光景は想像できる――そんな場所で顔を洗うことなど考えもつかない。
「公園で……」
いくつかの候補が用意されていながら、選択の余地はありそうでなかった。
「じゃあ、行こう」
アキラにそう促されると、カスミは「ちょっと待って」と、あわてて自分のカバンをまさぐった。クシを探そうとしたのだ。
そのとき、探る手の先にスマホが触れた。淡い期待を抱いたことは否めない。カスミは冷えきったスマホの画面をのぞいた。
――そりゃ、そうだよね……。
誰からの――普段は迷惑な広告でさえも――メッセージや着信の通知は表示されていなかった。凪の海辺に立ったときみたいに、画面はその静けさで何かを語りたがっているようにも思えた。
そのまま、しばらく見続けていると――語りかけている何かを解せずに――自動ロックの設定時間が過ぎた。画面は黒一色に塗りかえられた。光を放たなくなったガラスの画面は、ひどく不鮮明な出来の悪い鏡に変わっていった。
カスミの顔が映る。
――ひどい顔……。
髪もぼさぼさだ。それに……。
カスミは着ていた制服を見た。しわだらけだった。
制服のまま寝たのだから仕方がない。下着だって昨日のままだ。
――こんな姿で町を歩かないといけないの……。
カスミが自分の置かれた境遇を真に理解するには、まだ時間が足りなかった……。
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