第3章-6
早い朝の公園、先客は犬の散歩に来ていた老人ひとりだけだった。ふんふんと犬が地面をかぎ、老人はただその愛犬を眺めて微笑んでいた。
カスミはできるだけ老人を避けたかった。だが、アキラは平然とその老人に向かっていこうとする。公園を突っ切ろうとしていたのだ。カスミは仕方なくそれに付きしたがった。
確かに公園の手洗いはカスミ達のまっすぐ進んだところに見えていた。それをわざわざ遠回りして、公園の縁をぐるりと迂回するのもおかしな話だ。
――理屈じゃないんだけどな……。
カスミは顔を合わせないように老人の横を通過した。当然、自分達が気づかれることはない。それでも、カスミは小さく胸を痛めた。ショックを受ける出来事があった。
――人だけじゃないんだよね……。
犬は鼻先をかすめるカスミ達に一切の興味を示さなかった。それよりも、まるで地面に宝が埋まっているかのように、足下をいつまでもしつこく、くんくんと探り続けていた。
――本当に、これはいったいどういうことなんだろうか……?
人だけでなく、動物にまで無視されてしまう。
カスミは自分の置かれた不可思議な状況を――惨めな現実を、再認識せずにはいられなかった。
公園の手洗いには、幸いにも多目的トイレが設置されていた。車イスを利用している人や子ども連れの人が利用しやすいようにデザインされたトイレだ。
カスミは本来の利用者に申し訳ないと思いつつ、この早い時間帯なら許してもらえるだろうと、多目的トイレのスライドドアに手をかけた。中をのぞいて、カスミはほっと安堵のため息をついた。
――よかった……。
室内は掃除が行き届いており、ずっと不安に思っていた臭いも気にならなかった。
カスミは洗面台の前に立った。
――ひどい顔……。
鏡に映る自分の姿を見て、カスミはそう思うしかなかった。
スマホ画面を鏡代わりにしたときには気づかなかったが、目尻から薄い筋が跡となって頬をつたっていた。寝ている間に泣いていたのかもしれない。
――昨日、あれだけ泣いたのに……。
まだ涙は残っていたんだ……。
このままでは、また気分が落ち込んでしまう。カスミは気持ちをリセットするように、バシャバシャと顔を水で洗った。
ぼさぼさになった髪を、せめて落ち着かせるために軽く水で濡らす。カスミはアキラが貸してくれたタオルをカバンから取り出した。
『安心して。ちゃんと毎日、洗濯してるから』
白いタオル。本当にシミひとつない。そのタオルで顔をふくと、たっぷりと太陽の匂いが鼻腔を焦がした。
カスミは髪を櫛でとかし、普段はあまりしない髪ゴムでひとつに束ねた。
最後にもう一度、鏡の中の自分を見つめる。
――うん、大丈夫。
まだ、私の表情は死んでいない――。
私はまだあきらめていない――。
私はまだやれる――。
鏡の向こうの自分に言い聞かせるみたいに、カスミは瞳の奥をじっとのぞき続けた。
――さあ、行こう。
そんな覚悟とは裏腹な自分に鞭打って、カスミは扉を開けた。
まぶしい光が、慌ただしい朝の始まりを告げていた。
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