第3章-3

 屋上からは空がよく見えた。またたく星をさえぎる高層ビルもない。夜の町もすみずみまで見通せた。小さな路地に、ちかちかと街灯が点滅していた。

 カスミが危惧していた屋上への扉に鍵はかかっていなかった。開け放たれた状態で、人知れず、ひっそりとオブジェのように朽ちはてていた。

 カスミは屋上に立ち、もう一度辺りを見渡した。周囲を同じ高さの建物がぐるりと取り囲んでいる。それらはいっそ清々しさを覚えるほどに間隔をあけ、廃ビルを避けるようにして建っていた。

 そして、計算されたように――むしろ用意周到さを疑わずにはいられないほどに――周りを取り囲む建物に、窓や扉といった構造は排除されていたのだ。もしビルの顔が窓や扉といったパーツでできているなら、周りの建造物はことごとく廃ビルに背を向け、そっぽを向いていたことになるだろう。

 その状況に、カスミはいたたまれない気持ちになった。ここまでするのかと、無機質な構造物に同情を寄せずにはいられなかった。

「ようこそ、我が家へ」

 アキラが自慢げに――それはもう本当に偽りのない気持ちで――カスミを歓迎する言葉を背中に投げかけてきた。

 それまで屋上からの景色にばかり気を取られていたカスミは、そこで初めて少年の自慢の我が家に目をやった。

 どこからか拾ってきたようなブルーシートで小屋ができている。小屋といっても、たとえば立方体のような整然とした形状を期待するには無理がある。コンクリート台のついた物干しの支柱に、ブルーシートが不揃いのロープでくくりつけられ、それらはなんとか屋根や壁と呼べる状態を保っているのが精一杯であった。

 秘密基地――。

 一言で言い表すなら、その言葉をおいて他にない。

 その秘密基地の外にはいくつかの木箱――これも拾ってきたものだ――がテーブルとイスとして使われていた。それがテーブルだと気づけたのは、その上に弁当のガラが一つ、だらしなく放置されていたからだった。

 カスミは屋上をあらためて見回した。臭いは漂ってきていないが、目を凝らせばゴミ屋敷のような光景が広がっているのではないかといぶかしんだのだ。

「大丈夫、ゴミはちゃんと捨てているよ」

 聞かれてもいないのに、カスミの気持ちを見透かしたようにアキラは答えた。心外だなと言わんばかりの顔をして――。

「最初の頃は、そこらじゅうにほったらかしてたんだけどね。大変なことになったんだ」

 人は学ぶんだよ――。

 この少年なら続けてそんなことを言いそうだ。カスミは自分の中で勝手にそう決めつけた。

 カスミは次にブルーシートの小屋の中をうかがった。並べられた箱の上に、ぼろぼろに毛羽立った毛布がのっていた。

 ――ベッドかな……?

「ねえ、あなたはここに一人で住んでいるの?」

「そうだよ。ずっと前からね」

 ――ずっと前から……。

 カスミはその言葉の重さをはかりかねていた。この世界の重力は、どれほどの大きさを持っているのだろう……。

「いったい、どれくらい一人でここにいるの?」

「そんなこと、忘れちゃったよ。何日たったのかなんて、数えるのももうバカらしくなったんだ」

 およそ少年の姿には似つかわしくない言葉であった。

 ――カレンダーを見る気もなくなったっていうの?

 どれだけ変わらない毎日を過ごせば、時の経過を気にもとめなくなってしまうのだろう。

 ――いろんなことをもう、あきらめてしまったの……?

 未来を――。

 夢と呼ばれるものを……。

 ――私もいずれはそうなってしまうのだろうか……。

 夢を見れなくなる?

 カスミは分からなくなってきた。

 ――夢って何だろう……?

 夢を見るためには、自分が暮らす世界が無関係ではいられないはずだ。

 学校で頑張って勉強して。いい大学に進学して。いい会社に就職して。

 ――そして、いい人と出会って……。

 私が昨日まで生きてきた世界なら、そんな夢も描けただろう。

 ――でも……。

 今、私が立っているこの世界で見られる夢は何?

 あの少年が持てる希望は何?

 そして、こうも思った。

 ――ああ、そうか……。

 元の世界でも、夢を見られない子どもは大勢いたよね……。

 カスミはアキラと目があった。

 まじまじと見つめると、少年はにこりと大きく笑った。自分を見られることに慣れてない、居心地の悪そうな、そんな作り笑顔であった。

 ――もう先のことを考えるのをやめてしまったの……?

 そんなはずはない。自分の未来を考えないような人間がいるはずがない。

 住む世界がそれを考えさせないのか――。

 それとも……。

 聞きたいことは山ほどあったはずだ。それなのに、カスミはその中から、まずは目についた現実的な質問をせずにはいられなかった。

「箱の上のお弁当……。お金はどうしてるの?」

 アキラはきょとんとした。何を聞かれているのか、カスミが何を聞きたいのか、心底わからないといった表情だった。まるで、非常識にもほどがあると、カスミの方が非難されているみたいであった。

「お姉ちゃん、何言ってるの? お金なんて必要ないじゃないか」

「じゃあ、このお弁当はどうしているの?」

「もらうんだ。お店に行って、黙ってもらってくるんだ」

 カスミは愕然とした。この小さな少年がそんな行為に手を染めていることもそうだったが、平然とした顔でそんなことを言ってのけてしまうアキラの心根にショックを受けたのだ。

「誰も気にしないよ。誰も気づかない」

「それは泥棒だよ」

 その言葉は想像以上にアキラの胸に強く突き刺さったようだった。

「じゃあ、どうやって、ご飯を手に入れるの? 誰も売ってくれない! どうやってお金を手に入れるの? 僕は子どもで……子どもじゃなかったとしても、お金はどう稼いだらいいっていうの?」

 これはもう自分だけの問題ではすまなくなった――。

 もう一人分の厄介事を自分は背負わなければならなくなった――。

 そのときカスミは、どうしてか、そんな勝手な責任感を抱かずにはいられなかったのである。

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