第3章-2
闇の中に、闇が浮かんでいた。
真なる闇――。
そこに巨大な穴があいているのだと、カスミは錯覚せずにはいられなかった。それは打ち捨てられたビルの廃墟であった。
――こんなところにも仲間がいたんだ……。
そんな言葉がカスミの中に自然と生まれてくる。
仲間が多いほど今は心が安らいだ。それが生命の宿っていない無機質なモノであったとしても……。
ビルはそれほど高くはない。背景の夜空よりも暗いシルエットで、ビルの輪郭はカスミにもすぐに分かった。
「こっちだよ」
闇の中から、そう呼びかける声がした。
カスミは目を凝らした。
その本質が闇であるならば、あの少年はこの暗闇のどこかにとけ込み――あるいはこの巨大な闇そのものとして――カスミのことをじっとうかがっているに違いない。
カスミの立っている場所からアキラを探ることはできなかった。声がした方向も、あちらから聞こえたような気もすれば、こちらからのような気もする。声は闇の中で乱雑に入り混じり反射していた。
カスミは一歩前に足を踏み出した。
それは真なる闇に、みずからの身体を投じることに他ならない。
――私はもしかすると……。
悪い何かに、本当にいいようにたぶらかされているのかもしれない。
それでも足は止まらなかった。
――世界の秘密をあばいてやろう……。
そう思って、ここまで来たんじゃなかったの?
闇の中に踏み入らなければ、さらなる深い闇は見つからない。カスミが立っていた場所もまた暗闇ではあったが、その闇でさえ目が眩むほどにまぶしく――そのまばゆさゆえに世界は霞み――声を立てず潜む真なる闇の内側をのぞくことはかなわなかった。
だから、カスミは決意したのだ。目の前の暗闇に足を踏み出すことを。
闇に身を投じる。ふたたび上も下もない暗い虚空にカスミの魂は放り出された。まるで自分自身も闇の一部になってしまったかのような寂寥感――。カスミは宇宙をただよう孤独な粒子の気持ちを思い浮かべた。
目が慣れてくると、まるで黒いキャンバスに黒い絵の具で描いたようなビルの形が、ぼんやりと浮かび上がってきた。非常階段が見えた。アキラが立っていた。
アキラはカスミの姿を確認すると、待つこともなくその階段を上り始めた。
「上っていくの?」
カスミは少年を追いかけた。非常階段の上り口につく頃には、アキラは一つ上の踊り場でカスミを見下ろしていた。
「ねえ、このビルは何なの? どうして階段から行くの?」
カスミはそう尋ねてしまってから、自らの問いのあまりの滑稽さに気がついた。少年にバカな質問だと思われなかっただろうか。
誰の目にも廃ビルであることは明らかだったろう。非常灯がともっている気配も見られない。ビルは完璧な闇で、世界に向けて大口をあけた黒い穴でもあった。
「鍵がかかってるんだ。中には入れない」
――電気も通ってないみたいだから……。
どうせ中に入ったところでエレベーターも使えないよね……。
「どこまで上るの?」
この質問もまた見方によれば愚かな問いであったかもしれない。少年は何と言ったか?
――中には入れない……。
「屋上まで上らないといけないんだ。お姉ちゃん、大変だけど頑張って」
聞きたいことは山ほどあった。世界についても、このビルについても。だが、頭に浮かんでくる問いは、次の瞬間にはまた別の不揃いな問いに書き替えられていく。考えがまとまらなかった。
乏しい情報しか与えられていないくせに、カスミの思考はより多くの難題を生み出そうと努力する。いつまでたっても頭の中は整理がつかなかった。
――行き着くところまで、行ってやろう……。
いろんなことを考えるのは、それからでも遅くはない。
カスミは小さな悪鬼の呼びかけに誘われるまま、階段を上っていった。足を踏み外さないように、しっかりと手すりに手をかけながら。
それはカスミにできる、ささやかな抵抗であったかもしれない。これが闇の悪意の誘いなら、不慮の事故を起こしてしまえば、それは奴らの思うつぼだ。
非常階段からビルの内部につながる各階の扉は固く閉ざされていた。だとしたら、アキラの言う屋上にも、はたして人が立ち入ることは可能なのだろうか。
――つまらないことばかり、私は考えている……。
アキラは屋上まで行かないといけないと言った。だとしたら、そこにたどり着く道があるはずではないか。
やはり、どうしても余計なことを考えてしまう。
――もう、よそう……。
ここにいたって、カスミはようやくあきらめた。
――あれこれ考えてしまうのは仕方がないことだ……。
だって、今の私が置かれている状況は普通じゃないんだから。こんなの誰だって、いろいろと考えてしまうに決まってる。
――馬鹿なことを考えたっていいじゃない。
馬鹿でかまわない――自分がいろいろと考えてしまうのは、それが今の私に必要なことだからよ!
カスミがそんなふうに頭を悩ませていると、不意に世界が晴れわたった。
目の前には、よく見慣れたいつもの星空が広がっていた。町の灯りに負けじと、星々はまたたき、ほうき星が夜空を渡り、月は恥ずかしげに頬をそめて顔をのぞかせていた。
いつもと同じ夜空……。
いつもと同じ世界……。
――私の見方ひとつで、世界は変わる……。
大事なことを思いついたような気がした。
だが、屋上から見る景色に心をうばわれ、すべての言葉は失われていったのだ。
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