第2章-4
お腹が満たされたわけではなかったが、欲を言えば切りがなくなる。同時に、これから先、もう食べきれないほどにお腹がふくれることはないかもしれないと、カスミは悲観的な未来を思い浮かべずにはいられなかった。
しかし、今はそんなことで落ち込んでいる暇はない。いよいよ、近々にして最大の課題を考えるときがきたのだ。
この夜をどう明かすのか――。
難問だ。
自分の家に忍びこみ、なに食わぬ顔でベッドに潜り込む――。
おそらく可能だろう。その気になれば、お風呂だって入れるはずだ。
湯船につかりながら、やけっぱちに大声で歌ったとしても、誰も気にとめる者はいない。
だが、その選択肢はカスミの中にはもうなかった。それは、あまりにもつらすぎる……。
容赦なく、いろいろなことを再認識させられることになるだろう。おそらく、幾度となく――。
薄くつけられた傷を鋭利な刃で何度もなぞられる。傷はどんどん深くなり、骨を削り、やがては魂に到達する。カスミの心を切り刻んでいく。
――みじめな思いをするのは嫌……。
友達の家に厄介になることもまた無理な話だ。
ドラマやマンガでは、家出した主人公は友人の家によく転がり込む。友達もその家族もいい迷惑だろうなと思いつつ、自分はその手前の状況にまでたどり着けない立場なのだ。カスミはため息をついた。
自分は、まず認識されることさえかなわない……。
――じゃあ、どこに向かえばいいの……。
ホテルなんて絶対に無理だ。自分が気づかれるかどうか以前に、お金がない。
――ネットカフェっていう場所は、どうなんだろう?
利用したことはない。だが、ホテルより安く一夜を明かすことができる。そうテレビのニュースで見たことがある。
――あれは何のニュースだっただろうか……。
いや、何を勘違いしている。
気づかれないのだ!
ホテルも無理ならネットカフェだって何処だって同じことだろう。
カスミは自分の浅慮に腹が立った。
――私はもう別の世界にいる。
そこでは、元の世界の知識も常識も通用なんてしない。
それからもいろいろと考えをめぐらした。カスミはもう一度、二十四時間営業のファーストフード店に戻ってみた。
今度は何かを購入しようとするわけではない。カスミは客席の並ぶ二階へと階段を上がっていった。
カスミは通りを見下ろせる窓際のカウンター席に座ってみた。もちろん、誰も好んで腰を下ろそうとはしない、隅のまた隅の座席である。
落ち着かない……。
客の数は少なかったが、この席に座りたいと思う危篤な人間がいつやって来るともかぎらない。自分に気づかず、自分を押しとばす……。
それにフロアにはカスミと同年代の女子生徒達のグループがいて、そこからもれ聞こえてくる談笑の声が、たまらなく自分の胸を痛めつけていく。
五分ともたなかった。
カスミはいたたまれず席を立つ。
出口に向かうには、その女生徒達の近くを通らなければならない。
自分は見えていないはずなのに――彼女達は自分を見ようともしないはずなのに――カスミは目を合わさないようにして、そのグループの横を通り抜けていった。
カスミが次に向かったのは駅の構内や地下街の通路だった。
邪魔にならないような場所を見つけて腰を下ろしてみる。カスミのいる隅っこに向かってくる物好きはいなかったが、ひっきりなしに人の群れが行き交う。やはり、そこも落ち着けるような場所ではなかった。
公園にも行ってみた。東屋に屋根はあったが壁はなかった。
壁がない――それが夜の世界に放り込まれた人間にとって、どれほど不安なことか、カスミははじめて思い知った。
それに公園にも人は訪れる。ペットの散歩にくる人間ぐらいならまだよかったが、意味もなく大声でわめき散らす、いかがわしいグループがやってきたときには、カスミはそそくさと急いで公園から退散した。
――自分は見えていないのだから……。気づかれないのだから……。
からまれる心配なんてないだろう。
だが、理屈ではないのだ。たとえ自分に危害がおよばないと分かってはいても、怖いものはやはり怖い。
ただ同時に思った。こんな状況でも怖いと感じないようになってしまえば――今の境遇に慣れてしまえば……。
――私はもう、わたしではなくなっている……。
そうやって、カスミはずいぶんと町中をさまよった。そして、最後に行き着いたのは――追いやられたのは――町の外れを横切る河川敷であった。
いよいよというこんなときになって、そんな示唆に富んだ場所に出てきてしまった。できすぎた話に、不吉さを飛びこえ、カスミはどこか滑稽ささえ覚えた。
河原にはランニングコースが整備されていた。一定の間隔でベンチも設置されていた。今はもう人っ子一人いない。
カスミが目をとめたのはベンチではなかった。川にかかる橋のたもと。ゆるやかな斜面がコンクリートの擁壁で覆われ、橋梁が屋根代わりになっている。壁はもちろんなかったが、その狭い空間が自分を守ってくれるような気がした。その空間が自分を呼んでいるような気がした。
人ではなく場所なのに、不思議とカスミは仲間のような親近感を覚えていたのだ。
カスミは橋梁下の斜面を上っていった。コンクリートの地面に横になってみる。悪くないような気がした。
ふっと眠気が急激に襲ってきた。考えてみれば、今日という一日がどれほど長かったことか。
いろいろなことを考えた。
たくさん歩いた。
そして、今まで経験したこともないような悲しみに、身をついばまれた。
――もう、どうでもいい……。
カスミは抗えず、そのまま、まぶたを閉じていった。
「お姉ちゃん。ダメだよ、こんなところで寝ちゃ。風邪ひいちゃうよ」
どこからか、少年の声が聞こえてきた。
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