第2章-3
困ったことになった。
誰かに気づかれないことは、カスミを精神的に傷つけるだけではすまさなかった。もっと即物的な問題として、彼女の肉体を追いつめることとなったのだ。
ものが買えない――。
食べ物を購入することができないのだ。
スーパーにもコンビニにも行ってみた。だが、レジの店員は当然のようにカスミに注意をはらうことはない。
ここにきて、カスミが抱える問題は長期的な行動計画から、今晩の食事をどうするのかという生物の根源的な、そして現実的で差しせまった課題へと移らざるをえなかったのである。
不思議なもので、それほど減っていなかったお腹が、それと意識した瞬間から、みずから意志を持った生物のように主張をしはじめた。危険信号を警笛のように、がなり立てる。
空腹もそうだったが、カスミは喉の渇きも我慢できなくなっていた。
考えてみれば、学校の昼休みから何も口に入れていない。
自動販売機が目につく。
――まさか、機械にまで無視されたりしないよね……。
カスミはおそるおそる自動販売機に硬貨を投下していった。コインは軽快な音をたてて機械に飲み込まれていく。一瞬どきっとしたが、少し遅れて機械は投入された正確な金額を表示した。
ただそれだけのことなのに、カスミは心底ほっと胸をなで下ろした。
――温かいお茶でも買おうかな。
まだ季節は春を謳歌していた。だが陽が沈んでしまえば、うっかりすると、その季節自身も凍えきってしまう。
カスミはボタンに手を伸ばした。そのとき、緑茶の横に並ぶコーンスープの缶が目に入った。
頭ではなくお腹が判断を下したようだ。カスミはコーンスープのボタンを疑いもなく押していた。
人は何かの奴隷なんだろうか。
――今の私は、空腹にコントロールされている……。
カスミはコーンスープの缶で手を温めながら、すぐ目の前にあったベンチに腰かけた。その場所は街中の人通りの多い歩道だった。
カスミはスープをちびちび飲みながら、行き交う人々の生活を頭の中に思い浮かべていた。
――あの人達は家に帰ったら、温かいご飯が用意されているのかな。
家族が待っているのかな……。
こうやって観察していると、一人として同じ人間なんていないことを――そんな当たり前のことを――初めて意識した。
――私もその一人だったはずなのに……。
今日という日が折り返す――そのときまでは……。
差し当たっての問題は食べるものをどうやって手に入れるかだ。持ち合わせも心細い。
だが、そのときのカスミは、言葉にはしなかったものの、すでにその問題をいともたやすく解決する方法を思いついていた。ただ、それを言葉で言い表してしまうことが――この世界に形を成すことが――恐ろしかったのだ。そんなことを考えてしまう自分が怖かった。
盗む――。
誰にも気づかれないのなら、それを逆手に取ればいい。
甘い誘惑だった。
ある一面においては、一気に問題は解決されたといっても過言ではない。
だが、カスミの無意識はそれをかたくなに拒んでいた。言葉にすることを許さなかった。
カスミは徐々に熱量を失っていくスープを手に感じながら、そんなふうに色々なことを思いつくままに考えた。もちろん、その間にも幾度となく、不意に悲しみは胸を襲ってはきていたが――。
カスミは目の前の大きなスーパーを何気なく眺めた。ガラスの向こうに店内で買い物をしている客達の姿があった。その透明な板は、不思議とカスミと世界を隔てる壁のように思えて仕方がなかった。
そのとき、カスミの目にはっとするような光景が飛び込んできた。
――セルフレジ!
カスミはベンチから飛び出していた。
スーパーに入ったカスミは、おにぎりを一つ手に取った。カゴにポツンと一つだけ放り込まれたおにぎりは、どこか寂しげであった。
――節約しなくちゃ……。
そんなふうにカゴの必要性はまったく感じなかったが、セルフレジを利用するためには台にカゴをのせなければならない――カスミはそう思い込んでいた。
カスミはおそるおそるセルフレジの上にカゴをのせた。息をのむ――。
……ピッ。
セルフレジのタッチパネルは商品を購入する画面に切りかわった。
知らずカスミの表情に笑顔が浮かぶ。
おにぎりの値札に印刷されたバーコードをスキャンする。画面に表示された金額を硬貨で投入する。カスミは問題なく、その商品を購入することができた。
何も後ろめたいことなどない。正規の手続きで、正当な対価を支払って手に入れたものだ。誰にも、何者にも、文句を言われる筋合いはない。
カスミはスーパーを出て、さっきまで座っていたベンチに戻った。
おにぎりのフイルムをはがし、海苔を巻いて口に運ぶ。
目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
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