第2章-2

 家に戻ることは考えられなかった。

 ――もう、あそこには戻れない……。

 きっと、自分の部屋で眠ろうと思えば、それはかなえられるだろう。

 お腹がすけば、冷蔵庫からこっそりと食べ物を取り出し空腹を満たすこともできるだろう。

 ――でも、そんなのは家族とは言わない……。

 亡霊だと、カスミは思った。

 ――あの家にとり憑く亡霊……。

 家族を目の前にして、わたしは透明になる……。

 そして、あの目を見つづけなければならない。カスミの姿を映さぬ、父と母、姉のあの双眸を――。

 それは耐えがたいことのように思われた。そんな状況は、いつか自分を狂わせてしまうだろうことも確信できた。

 ――でも……。

 それじゃあ、これからいったい、私はどこに向かえばいいの?

 今から祖父母の家に向かうのは現実的ではない――というより不可能だ。時間的にも距離的にも。

 家族で田舎に帰省するときは、いつも飛行機を利用する。空港からさらに電車とバスを乗り継がなければならない。

 ――それに……。

 お金もない。

 カスミの財布の中には千円札が一枚、そして何枚かの硬貨が寂しく転がっているだけだった。

 大人でも先の展望を見失ってしまうようなこの状況下で、それはあまりにも心細く頼りないように思えた。

 カスミの持ち物といえば、学校の制服と教科書の入ったカバン。中身の乏しい財布。あとは、対話する相手を失い、どれほどの価値を残しているのかも定かではないスマホぐらいのものであった。

 肝心の祖父母の連絡先は、そのスマホには入っていない……。

 ――わかってる……。

 泣きたいだけ、もう泣いた。

 叫びたいだけ、もう叫びきった。

 悲しみは、もちろんまだこの胸のうちにある。この悲痛な思いが癒やされることは、たとえ万能の秘薬である時間をもってしても容易いことではないだろう。それでも――。

 ――動かなければ……。

 どうすればいいのか、もう全然見当もつかないけれど――。

 ――まずは落ち着ける場所にいこう。

 こんなにたくさんの人が行き交うところにいては、いつまた自分の身が突き飛ばされてしまうか分かったもんじゃない。それに、いつまでたっても気が散り、一向に考えがまとまることはないだろう。それはもう未来永劫に――。

 だが、暗くなりかけたこの時間帯に、この町の中に、はたして少女が一人だけで安心していられる場所なんてあるのだろうか。

 公園などは逆に人気がなさすぎる。

 カスミの頭に、ある場所が思い浮かんだ。

 学校帰りに友達とよく寄るファーストフード店。

 ――とりあえず、あそこに行ってみよう……。

 そこで、これからのことをゆっくり考えよう。

 だが、カスミはすぐに自分が現在置かれている、絶望的な状況を再認識することになる。冷静に考えれば、事前に分かったことだ。しかし、このときのカスミは、その店に行くことが唯一の正解であると信じて疑わなかった。……疑いたくなかった。

 店に入ると、注文を受け付けるレジはどこもいっぱいだった。カスミは、一グループだけが注文待ちで並ぶ列の後ろについた。

 ――あまり、お腹はすいていないけど……。

 小さいポテトぐらいなら食べれるかな。

 前のグループが注文を終え、カスミは空いたレジに進もうとした。そのとき――。

 後ろから、カスミは何者かに突き飛ばされた。

 振り返る。そこには、もう嫌というほど目にして見慣れてしまった、あの怪訝な表情を浮かべた誰かが――本当に何者でもない誰かが――とまどいながら辺りを見回していた。

 ――並ぶこともできない……。

 それだけのことなのに――いや、それだけのことだからこそ――カスミは大きなショックを受けずにはいられなかった。

 カスミは店の隅でレジが空くのをひたすら待ち続けた。

 やがて、店に入ってくる客が一瞬途絶えた。カスミにチャンスが巡ってきた。急いでレジに向かう。

 ファーストフード店のクルーはレジから離れ、別作業をしている。カスミは呼びかけた。

「あの、すみません」

 何度も何度も呼びかけた。

 だが――。

 気づいてもらえる気配は一向になかったのである。

 誰一人として、必死に呼びかける少女の声に耳を傾ける者はいなかった。いや、聞こえてはいなかったのだ……。

 カスミの声はしぼんでいった。

 少女はやがて押し黙り、その店を後にした。

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