教師近藤と漢字の間違い

「ちくしょう」

 その日、近藤の心は荒れていました。

 職員室の自分の席にいる彼は、生徒の提出物のノートをチェックしていたのですが、そのなかに本来「温野菜」と書くべきところを、間違えて「音野菜」となっている箇所がありました。

「なんておしゃれな間違いをしやがるんだ」

 言うほどおしゃれか微妙ですし、ノートを見終わってかなりの時間が経つというのに、彼はそのことを思って再び独り言を口にしたのでした。

 そう、近藤は単に漢字を間違えただけの生徒に対して、それも、わざとではなかったことが余計にそうさせたのですけれども、ジェラシーを感じていたのです。

 彼の嫉妬は相当なもので、それから何日もの間、周囲の人が話しかけてもなかなか気がつかないときが多々あるなどの不安定な状態が続きました。

「近藤先生」

 その後ようやく落ち着きを取り戻し、誰も様子がおかしいと感じなくなった頃に、職員室で別の教師が近藤に声をかけました。

「はい、何でしょう?」

 顔を向けた彼に、話しかけた教師は手に持っている紙に書かれた文字を見せながら言いました。

「ここ、非常口の『じょう』の漢字が、情けのほうの『じょう』になっちゃってますよ」

「ええっ!」

 近藤の出した声も、確認するのに近づけた体の動きも、すごい勢いだったので、軽い調子で誤りを指摘した相手の教師はびっくりしました。そして、言われた通り「非常口」が「非情口」となっていました。

「あちゃー、本当ですね。いやはや面目ない。教師とあろう者がこんな漢字の間違いをやらかすなんて。そうですよね、『つね』ではない『ひじょう』ですよね。情けがない出入口ってどんな出入口だよ、おーい! ってな感じですよね。ほんとに、まったくもってお恥ずかしいっ!」

「……はあ」

 その相手方の教師は、近藤の妙な興奮状態に訳がわからず、大いに戸惑ったのでした。

「やめてくださいよ、トレンチコートを身にまとったダンディーな男が、『あの出入口の非情なことといったらないぜ』みたいな、かっこいい台詞を吐く場面を想像するのは。まあ、そう言われても、ついしちゃうんでしょうけどね。ワッハッハッハッ!」

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