教師近藤とキュウリ
近藤の若き日の友人に、黒沢弘務という男のコがいました。
二人が中学生のとき、話しながら歩いた学校からの帰りに、近藤の家の前まで行った弘務は、カバンを置きにいって、もう少しおしゃべりをするので中から再び姿を現した近藤が、やけに嬉しそうだったため、何かあったのかと尋ねました。
「いや、今、親から、今日の晩のおかずがキュウリだって聞いたもんだから」
近藤は満面の笑顔になってそう答えました。
「え? キュウリがそんなに嬉しいのか?」
弘務には機会がなくて言っていなかったのですが、近藤はこの頃キュウリにドはまりしていました。特にこれといったきっかけや理由などはないうえ、彼の食の好みは大人になった現在に至るまでずっと、一般的な子どものそれとほとんど変わらぬ甘いものや肉が中心なので、本人的にもなぜそうなったのか不思議でした。ともかく、その気に入り方は半端ではなく、本当においしそうにしょっちゅう食べるために、家族から「お前は虫か?」とツッコまれるくらいでした。
「どうやってキュウリを食うんだ?」
近藤の食べ物の好き嫌いがなんとなく程度ではあるものの頭に入っていた弘務にも、その事実は意外で、よほどキュウリがおいしくなる食し方を知ってそうなったのかもしれないと思い、訊きました。
「そのまま食べるだけだけど」
「味噌やドレッシングくらいは付けるんだろ?」
「ううん、付けない」
「ええ? ただのキュウリの丸かじり?」
「そういう場合もあるけど、包丁で切るのはするよ。それと、おかずなんだからご飯も食べる」
弘務はその言葉が引っかかりました。
「ちょっと待てよ。つまり、キュウリで白飯を食べるわけか?」
「うん」
近藤はうなずきました。
「おいおい、そんなのうまくないだろうし、やってる奴聞いたことねえよ。お前って変わってるって思ってたけど、晩のおかずがキュウリってことは、家族もみんな同じで変人なのか?」
そう弘務は近藤を小馬鹿にしました。親しい関係でのからかいとはいえ、少しくらいムッとしてもよさそうなものですが、実際に変わり者の近藤は他人からそれしきの嘲笑を浴びるのは日常茶飯事で、それゆえか、顔色をまったく変えることはなく平然としていたのでした。
その後、月日が経って高校生になった二人は、学校は別になりましたが付き合いは途絶えておらず、ある日一緒に回転寿司に行きました。
それぞれの学校でのことなど楽しく会話しながら、途中まで何の問題もなく食事をしていました。
しかし、弘務が目の前に流れてきた皿を取り、それをあんぐりと大きく広げた口の中に入れようとしたときのことです。
!
彼は間近からただならぬ気配を感じました。その感覚は、真剣に働いている店の人たち以外は笑顔しかないようなほのぼのとした空間の回転寿司屋ではまずありえない、殺気といったものなのでした。命を狙われたりする戦闘のプロではなく普通の高校生であり、なおかつ完全にリラックスしていた弘務がそんなものを察知できたのは、よほどのエネルギーのかたまりだったということです。
それがどこからやってきているのか、近くなのでだいたい見当はついていましたが、ゆっくりとそのダークな空気の方向に視線を移すと、思った通り発信源は隣に座っている近藤だったのですけれども、彼はものすごい圧を放ちながら、鉄仮面のような表情で、黙って弘務のことを見ていました。その瞳たるや、食べているのが寿司だからではないでしょうが、死んだ魚のようでした。
もうおわかりかもしれませんが、弘務が口にしようとしていたのはカッパ巻きでした。そして彼は、二人が何度も会っているなかのちょっとしたやりとりでの出来事でしたのですっかり忘れていた、近藤がキュウリをおかずにご飯を食べることを自分が馬鹿にした過去を思いだしました。普通に覚えているか質問されたりしていれば、どれだけ頑張っても記憶に蘇らなかったかもしれませんけれども、突如目と鼻の先に自分の生命を危機に陥れそうなものが発生するという強い衝撃によって、脳の無意識を司る部分から表面に引っ張りだされたのです。
本人だけじゃなく家族もというのもあるし、あのからかいが良くなかったのは認めるけど、それにしても、あれでここまで?
そうした気持ちもありつつ、中学生のときより他人を思いやれるようになっていた弘務は、素直に謝罪しようか、あるいは、この様子だと許してもらえそうにないのでなんとか気が収まるうまい釈明はできないものかなどと、短い時間で頭をフル回転させて平和的な解決方法の模索を試みましたが、近藤が発するあまりの負のオーラに、何を言っても無駄だと悟りました。
ではしばらくどう振る舞うのが良いのか、それも迷った彼は、とりあえず取ってしまった以上残すのはもったいないのもあって、カッパ巻きを口に運んだのですけれども、まったく味を感じることはできなかったのでした。
それからというもの、弘務はこのときのトラウマで、カッパ巻きを食べられなくなってしまったということです。
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