教師近藤とレジ店員

 ある日、近藤はミニスーパーに買い物に行きました。

 購入する商品を店のカゴに入れ終えて、レジへ向かうと、少々長い客の列ができていました。

 それは、混む時間帯ではないのでレジが一カ所しかやっていないときに、たまたま客が増えたタイミングだったのもあるのですが、そのレジをしている店員が入りたてで、まだ不慣れなことも原因でした。

 さらに、その店員は名前を納谷由章といいますが、彼が非常に緊張していた点も、会計があまりスムーズにいっていない要素として大きかったのです。

 なぜそんなにも緊張していたのかというと、大学一年生で十九歳の由章は、人見知りな性格のうえにあがり症もあって、他人と接するのが大の苦手でした。探せば、もっと人と関わらずにできる仕事も見つかるでしょう。ですが、もうそれなりの、社会へ出て嫌でも他人と接触しなければならない機会も多くなっていく年齢ですし、そうでなくても、彼にとっては幼い頃からで長年の欠点を改善したい気持ちが強く、アルバイトを始めることにしたのも、お金よりもその修業が一番の目的でしたので、望んで応募した勤め先だったというわけです。

 さて、本人なりに頑張ってはいるものの、レジ待ちの行列が解消しそうにない状況を鑑みて、由章は手もとに設置されているボタンを押しました。それにより、「レジ応援お願いします」という音声が店内に流れました。

 すると直後に、他の客たちと同様に、普通におとなしく列に並んでいた近藤が突然、由章目掛けて次のような言葉を大きな声で発したのです。

「フレー、フレー、レジ! フレッ、フレッ、レジッ! 頑張れ、頑張れ、レジッ! 頑張れー!」

 誰も彼に何かをしたり言ったりはしませんでしたが、凍りついたようになった周囲の雰囲気や、そんな声かけをしたのは自分だけだったことなどから、勘違いをやらかしてしまったと気づいた近藤は、「コホン」といかにもな取り繕いの軽いせき払いをした後、再び由章に向けてながら、今度はすごく落ち着いた、加えて威厳のある、口調になって話しかけました。

「息子よ、頑張りなさい」

 自分の子どもがちゃんと働けているか見にきて、心配のあまり我を忘れておかしな行動をとってしまったのだ、というごまかし方をしたわけです。

 とっさに考えたにしては、良いアイデアと言えるかもしれませんが、由章まで恥ずかしい対象に引き入れたのですから、悪質でもあるでしょう。由章は、「何だよ、息子って。あんたなんか知らねえよ!」と心の中で叫びましたが、それをまんま口にすることはできませんし、とにかく顔から火が出るほどの精神状態になりつつ、黙って必死に会計をやり続けました。

 その場はそれ以上恥ずかしい思いをしないで終えることができました。けれども、問題はなくなっていません。別の店員たちには、親しい相手以外にしゃべるというだけでもハードルが高い彼にはそれも大変とはいえ、見ず知らずの変なおっさんの失敗の巻き添えにされたのだときちんと説明すれば、誤解はとけるでしょうが、あのときあそこにいた客たちがまた来店してきたら「父親がおかしい店員だ」という眼で見られる懸念がありますし、その人たちから話を聞いた人々も店を訪れて自分をあざ笑うかもしれませんし、釈明もできません。ただでさえネガティブ思考で、他人から悪く思われていないかをしょっちゅう気にしてしまう由章は、そこでのアルバイトを辞めようか悩みました。

 しかし、そうすると自分は今までのままで何も変わらないと考えて、継続して働くことに決めました。

 不安な一方で、自らも恥をかいたわけですし、あの男さえもう来ないでくれれば、この苦境を乗り越えていけそうな予感はあった、にもかかわらず、近所に住んでいるのか「あの男」の近藤は、その後もたびたび、それも口笛を吹きそうなくらい平然とした顔をして、由章のいる店にやってきてしまうのでした。近藤のことですから、あの程度のしくじった出来事などまったく気にしていなかったのです。

 また近藤はそれにとどまらず、購入する商品が多くて会計に時間がかかった際に、調子に乗ってこんな言葉をかけてきました。

「うむ。今日も頑張っているな、息子よ」

「何なんだよ、このおっさん!」という台詞が脳内を駆け巡りながらも、のみ込んで、近藤のストレスに耐えて働き続けた由章でしたが、胃の具合が悪くなってきて、出勤するのも厳しい状態になってしまいました。

 そこに至って、いくら自分の弱点を克服するため、成長するためといっても、こんなおかしな中年男性が相手のアホらしい我慢で健康を害するのは割に合わないと、結局その職場を後にする決断をして、店の責任者に告げたのでした。

 それから少しの間は、馬鹿馬鹿しいことだろうが割に合わなろうが、所詮は逃げたに過ぎず、やっぱり自分は気が弱いし忍耐力もない情けない人間だと、働くなかでちょっとずつ生まれてきていた自信は砕け散り、激しく落ち込みました。

 それでも、すぐに別の店に申し込んで同じ仕事をやりだしたところ、近藤との絡みに比べれば何をするのでも恥ずかしいのは微々たるものだという感覚を得られたようで、他人に臆することはまったくなくなり、さらに、しばらくすると楽しく働けるまでになったのでした。

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