教師近藤とリレー
近藤は足が遅いほうで、運動会や体育祭における徒競走やリレーで目立った経験など皆無であり、学生時代を振り返ったときに満足な気分に浸れるような思い出は一つも存在しません。
これまでご覧いただいたように、見た目は地味でも、やることは派手好きな彼の性格です。とにかく不本意で、特にリレーはそういった大会の花形種目なので憧れが強く、大人になって相当な歳月が経過した現在でも、あの場で活躍したかったという気持ちが消えないでいました。
その執念でしょうか、彼はふとあることを思いつきました。
そして、職員会議で以下の提案を行いました。
「今年の体育祭の生徒全員によるクラス対抗リレーに、担任教師を加えてはいかがでしょうか?」
近藤は、それを実施することでもたらされるもっともらしいメリットをいくつも考えておいて述べたり、他の教員たちにそこまで言うのならやっても構わないんじゃないかと思わせる熱のこもった話しぶりで主張するなどの手を尽くして、その案を決定に至らせることに成功しました。
後日、近藤が受け持つ二年三組の隣の二組の担任である、三十代の男性教師の牧原は、教室でクラスの生徒たちにそれを報告しました。
すると彼らは、「じゃあ、クラス対抗リレーは負け決定だな」とはっきり口に出したりと、自分たちは脇役の教師の学級であることを理由に、諦めムード全開の態度をとったのでした。
実のところ生徒たちと同じ心境だった牧原ですが、目の前の寂しい光景に心が動き、「おいおい、何を今の時点からそんなことを言ってるんだ。いいか、私は学生時代、陸上部だったんだぞ。それに近藤先生より若いんだ。むしろ勝つ確率は高くなったんだよ、頑張ろう」と語りかけました。ちなみに、昔陸上部だったのは事実ですが、ずっと補欠的な立場で、実績といえるようなものはありませんでした。とはいえ、近藤より若くて有利なことは確かでしょう。
しかしなおも二組の教室には「どうせ無理だよ」という空気が充満していたので、彼は「休み時間や放課後に、そのとき参加できる人だけでいいから、一緒に走る練習をしよう。な?」と明るく呼びかけました。
そして実際に生徒たちと空いている時間にトレーニングをすると、思っていた以上に牧原の足が速かったことに加え、回数を重ねるとともに一体感が生まれて、バトンパスが目に見えて上達していったために、子どもたちは「自分たちはやれるかもしれない」という希望に満ちた、生き生きとした表情になっていきました。
そんな光明が射しつつあったときでした。牧原が生徒たちとの練習を終えて、職員室へ向かって階段を上っている最中に、突如行く手を阻むように眼前に近藤が現れ、こう言ったのです。
「おやおや牧原先生、ずいぶん張りきってらっしゃいますねえ。こりゃあ、リレーが楽しみですよ。イッヒッヒッヒッ」
非常に不気味な笑みを浮かべて、彼は階段を下りていきました。
それによって元は生徒と同じく弱気だった牧原は、現実に引き戻されたようになり、「どうしよう、近藤さんに盾突いた感じになってしまった。あの人を敵に回したら、どういう目に遭うかわかったもんじゃないぞ」と不安でいっぱいになりました。
けれども、教え子たちだけでなく、自らも練習で自信や手応えをつかんできていたことで、すぐに「こうなった以上はしょうがない。どうせやるからには、いっそのこといつも目立っている近藤さんを圧倒して、主役に踊りでてやろうじゃないか」という闘争心とより一層のやる気が芽生えたのでした。
その結果、帰宅後などの一人でいるときにもトレーニングに励むようになった牧原でしたが、ある点に気がつきました。
「待てよ。普通に走ったら若い僕に勝てないのは明らかだし、あの近藤さんのことだ。よっぽどの秘策や奇策を考えているはずだよな」
足が速くなるシューズを開発しているといったものならまだよいですが、以前見せた不吉な態度を考慮すると、彼がまともに走れなくなるような妨害行為に及んでくるかもしれません。
しかし、しばらくして、「どういうことをやってくるのか、自分がどんなに頭をひねったところでわかりはしないだろうから、悩むのはやめて、努力することに集中しよう」という結論に達しました。
「とにかく、どうしても負けるわけにはいかない。あれほど生徒たちをその気にさせておいて……」
牧原は、かき消した近藤への不安と入れ代わるようにしてプレッシャーを感じ始めましたが、それもまた乗り越えるべくトレーニングに没頭しました。学生時代の陸上部のときも練習は真面目に取り組んでいましたけれども、必死さは当時を確実に上回っていたのでした。
時は流れて、体育祭が迫ってきました。休憩時間に職員室にいた牧原のもとに、近藤が再び接近してきて、話しかけました。
「体育祭のクラス対抗リレーですが、私、アンカーを務めることになりましてね。先生もそうなさるんでしょう?」
「え? いえ、まだ決めていませんが、生徒のなかにアンカーをやりたいコはいるでしょうから、私はやらない方向で考えておりますけれども……」
牧原は、近藤を押しのけて自分が主役の座を手に入れてやろうという決意は揺らいでいませんでしたが、体育祭の本当の主人公は生徒たちであるとわきまえてもおり、その言葉は近藤を意識してのものではなく正直に答えただけでした。
「ほう。逃げるわけですか」
近藤は意地悪く挑発的な口調で言いました。
「ええ? そんなつもりはありませんが」
牧原はうろたえました。
「だったら私と勝負なさいよ、正々堂々とね」
近藤はそう口にすると、「ヒー、ヒッヒッヒッヒーッ」と、前回に増して気味悪く、まるで悪魔のようになって離れていったのでした。
「というわけなんだ」
二組の教室で、牧原は生徒たちに事の次第を説明しました。とはいっても、あまりストレートにしゃべって近藤を悪く言うかたちになってはまずいので、せっかくの華やかなポジションであるアンカーをやりたい人はいるだろうけれども、近藤と走ることになるから、もしかしたら何かをやられて危険な思いをする羽目になるかもしれないという最も重要なポイントを中心に、教師生活を送るなかで身につけた上手な話し方で伝えました。
その最後に彼は尋ねました。
「どうかな? 私はどっちでも構わない。もしみんなが望むのであれば、アンカーをやろうと思うんだけど」
そこで多数決をとり、牧原がアンカーを務めるのが良いほうが七割以上の票を獲得しました。さらに、それでもアンカーをやりたい人は自分のところに遠慮なく言いにきてほしいし、その誰かに任せることになってもみんな文句を口にしたりはしないように、そもそも生徒がアンカーをするのが普通なんだから、と述べて、しばらくの期間待ちもしましたが、名乗りでた生徒はおらず、もちろん不満なコもいるだろうけども大部分の生徒は本当に彼がアンカーをやるのがいいと思っていると感じられたのと、何よりもやはり彼らの安全を最優先に考えて、アンカーの大役を引き受ける決心をしました。
そうして、参加者のなかで一番緊張しているのは牧原かもしれない、体育祭の当日をついに迎えました。
天候に恵まれ、プログラムは滞りなく進行し、いよいよ二年生のクラス対抗リレーの順番がやってきました。
四つあるクラスで、足の速い生徒が多く、その反対に足が遅い印象のコは少ない、近藤が担任の三組が優勝を本命視されていました。だから近藤は、己の走りはいまいちでも、アンカーになって勝利のゴールテープを切ることで目立るという魂胆であると、誰もが見抜いていました。
ところがいざスタートすると、散々行った練習の甲斐あって、二組も三組にまったく引けをとらず、とりわけバトンパスのうまさが際立って、その二つのクラスがトップ争いをしてデッドヒートの展開になりました。
そのうえ、なかなか引き離せない焦りもあったのでしょうか、残り数人というところで三組の生徒が受け渡すときにバトンを落とす手痛いミスを犯してしまったことで、二組は他のすべてのクラスにけっこうな差をつけての一位に立ち、あとは一人、アンカーだけとなったのです。
牧原は前の走者の生徒から差しだされたバトンをしっかり受け取りました。その時点で、普通に考えれば勝ったも同然です。周りで見ている人の多くがそう思いました。けれども、彼はわずかな油断もしませんでした。それは「勝負は下駄を履くまでわからない」という言葉を肝に銘じてケアレスミスを犯さないよう気をつけたためではもちろんありません。近藤が何もせず、このままの状態で終わるはずがないからです。
何をやってくる気なんだ?
心の中では不安の大波が押し寄せてきながらも、牧原は負けじと一生懸命足を動かしました。
その後方で、二位でバトンを手にした近藤も走り始めましたが、やはり速くなく、牧原にはとても追いつけそうにありません。
すると、思った通り近藤は奇策をくりだしました。着ているジャージのズボンのポケットに隠し持っていた小さい矢を取りだし、バトンを吹き矢の筒とすることで、それを牧原目掛けて放ったのです。
実はその矢の先には眠り薬が塗ってあり、刺さった人は瞬時に深い眠りに落ちていくようになっていました。近藤は相当訓練を積んだのでしょうか、それは正確に牧原に向かって飛んでいきました。
矢は後ろから来ているため、牧原にはまったく見えていませんし、そもそも近藤が攻撃してきたことすら把握できていません。
それでも、近藤が何かやってくるとわかっていた彼は神経を研ぎ澄ませていて、何かが自分に襲いかかってくる気配を感じ取り、それが近藤が狙いを定めた首に命中する寸前に、上半身を横に少し傾けて、見事にかわしたのでした。
矢に睡眠薬が塗られている点など、すべてをきちんと理解できている者は近藤以外にはいませんが、彼による魔の手から牧原が逃れられたのは明白でしたので、二組の生徒たち、そして牧原自身も、喜び、ゴールはもう目の前だったこともあって、さすがに勝利を確信しました。
が、牧原の胸に触れたゴールテープがなぜか切れずに、体に密着したまま伸びていって、しまいには彼を走ってきた反対の方向へ跳ね返す格好となりました。
それはゴールテープが紙ではなくゴムでできていたためで、もちろん近藤の仕業であり、牧原はゴールラインの手前で転倒しました。
彼は、身体的なダメージよりも、何が起こったのか訳がわからず茫然といった状態に陥ったせいで、すぐに立ち上がることができませんでした。そして、その間にやってきた次の走者の近藤が、左手はかっこをつけた派手なガッツポーズを決めながら、もう一方の右手で、さらに隠して携帯していた小さいハサミを使用して、目立たないように素早くゴールテープを切断し、フィニッシュラインを越えたのでした。
奇跡的な大逆転劇というかたちになり、近藤と三組の生徒たちは大いに盛り上がりました。
しかし、当然といえば当然ですが、二組から代表して数名の生徒が大会運営本部へ抗議をしにいきました。
彼らはゴールテープがゴムだったことを問題視して訴えると思われましたが、そうではなくて、こう主張しました。
「牧原先生はゴールラインを過ぎてから跳ね返されたので、ゴールはしており、一着になるのではないですか?」
見ていて、そちらのほうを強く感じたからでした。
すぐさま責任者の教員たちによる協議が行われ、確かにその生徒たちの言う通りだというので意見はまとまり、二年生のクラス対抗リレーの優勝は二組であるとの裁定が下りました。
それによって今度は二組の子どもたちが、それも大逆転で勝ったと思った三組以上に、喜びを爆発させ、少し離れた位置で状況の推移を見守っていた牧原のもとに一斉に駆け寄っていって、彼を取り囲み、「やりましたね、先生!」と笑顔でねぎらいながら、嬉しさを分かち合いました。
そこへ、ちょっとしてから近藤がやってきて、言いました。
「良い生徒を持ちましたね、牧原先生。いえ、あなたの頑張りが、このコたちを教師思いの素敵で立派な人間へと成長させたというのが正しいのでしょう。いやはや、今回は完全に私の負けです。あっぱれ!」
そして、飽きもせずまたしてもかっこつけた態度で、立ち去っていきました。
「先生……」
そうつぶやいた牧原は、離れてゆく近藤の後ろ姿を見つめながら、「もしかしたら今までのことは、すべてが言わば仕組まれた、近藤先生の手のひらの上の出来事だったのかもしれないな」と思ったのでした。
けれども、近藤がそんなお人好しなわけはありません。本当のところは、牧原がゴールテープに当たってすぐに跳ね返されるはずだったのが、思っていたよりもゴムが伸びたのと、それだけ牧原の走りにパワーやスピードがあったためにゴールラインを越えてからになったという、計算違いが発生して、普通に勝ちにいったのがこういう結果になってしまったので、さも牧原が活躍するように自分が演出して、勝利を譲ったかのごとく振る舞ったに過ぎませんでした。
そういった詰めの甘さがあったりするために、彼がめちゃくちゃなことをしても、この学校の平穏は保たれている面があるのでした。
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