#217「報酬;秘紋との再会」



 ──カツン、カツン。

 硬質な足音が、松明に照らされる古の墓所で染み入るように反響していた。


 トライミッド連合王国・王都ロア。


 城の地下で案内を務めるのは、王であるトーリー・ロア・トライミッドそのひとだった。

 片眼鏡の痩身は憤怒の英雄を護衛とし、その傍に続くのは小柄なザディア。

 そのさらに後ろに続く形で、俺たちが並ぶ。

 トーリー王が不意に口を開いた。


「これはエルノス人のなかでも、限られた王族や一部の特権階級だけが知る秘密だけど」


 世界神に仕えた尼僧はかつて、自分たちの死後、秘文字の奇蹟を悪用されぬように『墓守の使命』を信頼できるモノに託した。


「今でこそ世界宗教はカルメンタリス教だけど、昔は渾天儀教が主流だったらしいからね」

「多くは渾天儀教の信徒のなかから、選りすぐりのものが選ばれたと云います」

「とはいえ、ダミーで『墓守』に選ばれたモノもいるだろうけど。ウチではその使命をダミーかどうかは関係なしに、大切に継承している貴族がいるんだ」

「我が国の連合王族然り、城塞都市リンデンのウィンター伯も然り」


 先頭を行くトライミッド首脳陣は、淡々と守り人となった経緯を話す。

 地下墓所の空気は湿っていて、カビとホコリの匂いが強い。

 憤怒の英雄が松明で蜘蛛の巣などを払いながら、「きたねぇ」と顔を顰めていた。

 暗所での視界を制限されないため、俺も思わず眉間にシワを寄せる。


「あまり大切に継承されていた、とは思えない雰囲気ですけど」

「アハハ。ごめんごめん。ボクはウィヌと違って、そんなに真面目じゃないからね」

「正直なところ、リンデンからメランズール殿の話が伝わるまで、世界改変の大権など半ば迷信の類いと考えておりました」

「けど、実際に権能を継いだ生き証人が現れて、月の瞳とかいうあの魔物が出てきちゃったじゃん? 参ったよねー、慌てて確認したらマジで〝墓荒らし〟の証拠も見つかっちゃったんだから」

「……つまり、田舎と都会の違いですか」


 辺境であるリンデンでは、ウィンター伯は真面目に先祖伝来の使命を継承していた。

 真摯に守り人の使命を請け負っていた。

 だが、王都近辺の中央では秘文字の奇蹟は迷信扱いされつつあり、墓守の使命は半ば形骸化しつつあったと。


「杜撰な管理体制でホントごめん。エリンやダァトと比べても、ロアウチは特にひどくてね。短命種はこういうところあるよなー」

「エルフとドワーフに比べれば、ニンゲンの寿命は短い。もちろん、言い訳にしかならないのは分かっていますが……」

「フン。ダミーかもしれないと聞かされていて、普通に考えれば寿命の件もある。エル・ヌメノスの尼僧が本物を、わざわざリスクを冒してまでニンゲンに託すはずはねえ、ってのは無理もない考え方だわな」


 ところがである。


「そこを、敢えて逆の発想で託してくださったのかな? 月の瞳とも話はさせてもらったけど、ウチにも本物があるコトが分かった」


 階段を降り、長い通路を進み。

 立ち止まったトーリー王が、大きな石扉の前で振り返る。

 片眼鏡の奥から、隠しもしない好奇の色が覗いていた。


「さあ、約束の報酬だよ。ウチにある尼僧の墓所で、貴公の求める遺体が此処に無いとしたら、たぶんエリンやダァトを確認しても空振りで終わる」

「妙に、予言めいたコトを言いますね」

「うん。だって、月の瞳から聞いた話じゃ、エリンとダァトの方がダミーっぽかったからさ」

「ちなみに、この墓所の中身を確認した者は建国時以来おりません」

「建国時の連合王の遺言に、〝資格無きモノは決して入るな〟って厳命があったからね。よく分からないけど死者も出たらしい。四ヶ月前までは単に箔付けのための脅しかと思ってたけど」


 ただ、墓守の使命を託された一族の血。

 それだけは決して絶やさないようにとも、遺言には記されていた。


「きっと、こうして未来に訪れる貴公を導くためだったんだと思うよ」


 トーリー王はそこで、ザディアが差し出したナイフを受け取り、左の手のひらに切り傷をつけた。

 血が滲み出し、ぷくりと浮かんだ赤い液体を石扉の真ん中に押し付ける。

 すると、石扉はひとりでに左右に動き出した。

 墓所の最奥が、恐らくは二千年ぶりに中身を覗かせる。

 全員の視線が俺に集まった。


「せ、先輩。死者が出たって、かなり危険なんじゃ……」

「秘文字の奇蹟を守るため、何かしらの防護策が残されていても不思議はありますまい」

「それでも、メラン殿下は前へ進まれるんですよね」

「──当然」


 俺はそのために、壮麗大地テラ・メエリタから帰って来たのだ。

 すべては運命との再会を願って。

 どんな些細なものでもいい。

 彼女に繋がる手掛かりを、この手に掴めるならと。


「……それに、ルゥミオリア以上に恐いものも無いでしょう」

「それは──」


 違いない、と。

 ゼノギア、カプリ、フェリシアが思い思いの顔で頷いた。


 ゆえに、億さずに中へ入った。


 瞬間、墓所は別の場所に一変した。


「────っ、と」


 驚きは自分でも、意外なほどに少なかった。

 なんとなくだけど、予感はしていたからか?

 吹く風が外の空気を教えてくれる。

 黄昏の射光が、一面の花畑を淡く包み込む。

 黄金こがね色の無窮。

 ありえざる神代の花丘。

 微風が花弁を散らし、穏やかな気持ちを胸に満たす。


 なんて──鮮やかな


 知らず、ゆるゆると頬が緩んでいくのを止められなかった。

 深く息を吸って、万感を噛み締めた。


 彼女は、頂上にいた。


 世界には俺と彼女の二人だけだった。


 歩いていくと、十年前と寸分違わない姿が目に映る。

 灰色がかったプラチナの髪。

 胸元の前で組まれた繊細な手のひら。

 ゆったりした袖口から覗く花のような手首。

 厚着だろうと一目で伝わる身体の丸み。


(フードクローク、相変わらず目深まぶかに被ってる……)


 厳格かつ敬虔に編まれた袖広長衣ソプラヴェステの着こなし方。

 高位の巫女である証。

 襟元に打たれた星鋲スターリベットや、独創的な楔型のネックレス。

 黒地の布を細かく飾る黄金色の刺繍。


(……眼帯も)


 ああ、覚えている。

 顔の半分以上を覆う、単眼巨人キュクロプスの目玉のような水晶玉。

 外せばきっと美人だろうに、顔の八割を覆い隠していて口元しか素顔を晒していないのも。

 輪郭がぼやけていて、実体が不定形なところだって変わらない。

 背中に浮かせた異形の光輪は何だ?

 奇怪な鉤爪もどきを生やしながら、二重三重に回転する禍々しい象形太陽。

 翼のようなイメージも抱かせる異彩のインパクトは、ああ、やはり忘れようが無い──


「……久しぶりだな」

「──ええ。お久しぶりです」


 返ってくる美声も、懐かしかった。


「……遺体はまだ確認できてないんだけど、こうして再会できたってコトは、当たりを引いたって認識でいいんだよな?」

「はい」

「……長かった。本当に長かった。いろいろ話したいコトが、たくさんあるよ」

「私もです。私も貴方に、たくさん話さなければならないコトがあります」

「──でも、その前に確認させてくれ。今回は時間に余裕は……?」

「ご安心ください。〝私〟を見つけてくださったコトで、失われていたチカラの四割が戻りました」


 ご覧下さい、と。

 秘紋は辺りを見渡す。


「私の記憶です。私が最も好きだった場所です。今はもうこんなにも、たしかになりました」

「ああ。すごく綺麗だ」


 一心同体。

 運命共同体。

 言葉にして伝えてもらうのと同時に、秘紋の郷愁や感動といった想いが、〝我が事〟として胸の裡に広がっていく。


 俺もまた、世界にはかつてこんなにも綺麗な場所があったのかと。


 心から打ち震えかける。

 斬撃王が生きていた黎明の時代。

 この半身もまた、かつて同じ空の下でこういう大地を歩いていたんだろう。

 空に入るヒビ割れや、崩落の前兆は無い。

 世界は完璧で、どこまでも美しかった。


「時間は、あるんだな。それじゃ、は──?」

「…………」


 秘紋はゆっくりと振り返り、静かに首を横に振った。


「残念ですが、私の名をお伝えするには、すべての〝私〟を取り戻していただかなければなりません」

「すべての、私?」

「今回得たのは『首』になります。『血』、『躯』、『心臓』、『髪』の内、『血』は最初に加工されたものですので、残りは三つ……」

「……もしかして、バラバラにされてるのか……?」


 キャッスル・ロアにあった遺体は、生首だけという話?

 疑問に思うと、


「はい。猟奇的に思われるかもしれませんが、私は巫女のなかでも特別高位の地位にありましたので……エル・ヌメノス様に許されていた特権も多く──」

「──そっか。遺体をそのまま綺麗な状態で一箇所にまとめておくのは、危険だったってコトだな?」


 コクン、と頷いて秘紋は簡潔に肯定する。

 残念だが仕方がない。

 尼僧の遺体は利用されれば、どんな願いも叶えてしまう流れ星だ。

 月の瞳がネグロに与えた『血』だけでも、魔力喰らいの黒王秘紋っていう超抜級の奇跡を起こしている。

 五つに分割して封印しておくのは、セキュリティの面でもリスク分散ができていて賢い。

 特に、後世のものが何かひとつを使って悪用したとしても、同様に他のひとつを使って対抗手段に転用できる可能性が残されている。

 名前を聞けないのは残念で仕方がないが、文句を言うのは我慢しなければいけなかった。


「……にしても、トライミッドにはじゃあ、二つも遺体があったってコトか?」


 トーリー王と月の瞳の話から、最初に盗み出された『血』がトライミッドにあったのは分かっている。

 ただ、そうなるとリスク分散の考え方としては少々お粗末な結果な気がした。

 秘紋もそこは分かっているのだろう。

 ご指摘はごもっともですが、と前置きつつ、


「けれど、それは仕方がないのです」

「仕方がない?」

「私の『血』はもともと、別の場所に封じておりました。しかし、ある時とんでもない盗賊がフラリとやって来たかと思うと、墓所を丸ごと連合王国に移してしまったのです」

「マジかよ」


 一心同体なので、嘘じゃないのが直観で分かってしまう分、余計に驚かされる。


(つまり、『血』が盗み出されたのは過去二回)


 もともと別の場所にあったのをトライミッドに移した最初の盗賊と、それを後から盗み出してメラネルガリアに運んだ月の瞳。

 犯人は二人もいたってコトか。


「月の瞳はとりあえず置いておくとして、その一回目の盗賊ってのは?」

「正体は分かりません。彼のモノは盗人として、あまりにも神がかった手腕の持ち主でした」

「動機も分からないのか?」

「ええ。私にはただ、墓所が動かされたという結果だけが分かるのみで……」


 恐らくはそういった権能を持った、簒奪神の縁者ではないかと。

 推測を立てるのが関の山、と悔しげに呟く秘紋。

 信じ難いが、世の中にはとんでもないヤツがいるものである。


「でも、不思議だな。それだけの盗みの技を持っておいて、やったコトは墓所の場所を動かしただけだったのか」

「彼のモノが何を目的にしていたのか……それもまた、盗賊の正体を靄のようにぼかして捉えさせない原因のひとつでもあります」


 不気味だが、追及の手掛かりは無い。

 分かっているのは結果だけで、今の俺たちが優先して考えるべきなのは詳らかになっている事実だけか。


「──とりあえず、『血』の経緯は理解したよ。『首』と合わせて、二つの遺体がトライミッドにあった理由も」


 けれど、しかしながら。


「……十年前、ハガルの書斎で言ってたよな」

「……」

「あの日から続いてる疑問を、訊いてもいいか?」

「──どうぞ。なんなりと」


 跪拝の姿勢を取る秘紋に、それじゃあ、と長年の謎をぶつける。


「盗み出された遺体は、あと幾つあるんだ? 秩序律を狂わす悪しきモノどもってのは、具体的にどんなヤツらを指す?」


 薄々察しはついてきたのだが、ここだけは明確にしておかなければならない。

 十年前の時点で、『血』は俺のものだった。

 犯人が謎の盗賊にしろ月の瞳にしろ、盗み出された後の所在は明らかになっていて、それなのに、コイツはハッキリと口にしたのだ。


 ──我が運命、我が今生の君。どうか秩序律を狂わす悪しきモノどもから、私を救い出してください。


「盗み出された骸を探し出して見つけてくれ、ってアンタは俺に頼んだ。ってコトは、盗まれたのは『血』だけじゃなくて、他にもあるんだろ?」

「──汗顔の至りながら」

「……ひょっとして、それも盗賊が?」

「恐らく。『首』、『躯』、『心臓』、『髪』の内、無事なのは『首』と『躯』の二つだけです」

「盗まれたのは五分の三? ……結構ヤバいな」


 過半数。

 その内、『血』は回収済みというか加工済みなので、現在進行形で所在不明なのは『心臓』と『髪』の二つになるようだ。

 とはいえ、これだけ盗み出されているとなると……


「無事な『躯』を先に回収しておいた方が良さそうじゃないか?」

「そうですね。私もできれば、『躯』だけは死守したいと考えております」

「他の部位と比べても、一番大きそうだしな。やっぱ本体的な面があったり?」

「……そ、そういう理由もありますけれど……」

「? なんだよ、他にも理由があるなら教えてくれ」


 首を傾げると、秘紋はやや居心地悪そうに答えた。


「お、女の『躯』なのですよ? 恥ずかしいに決まってるじゃありませんか……」

「────ああ、なるほど」


 盲点だったので理解が遅れた。

 が、たしかに言われてみればそうだ。

 女性が自分のカラダを物のように無遠慮に扱われる。

 あまつさえ、得体の知れない誰かに盗まれるだの暴かれるだのされるというのは、尊厳を含めた辱めに違いない。


「私たちはこのように、顔だってみだりに余人に見せてはいけない決まりで……」


 キャッスル・ロアの『首』も、だから見られる前にこの場を設けたのだと。

 秘紋は俯きながら教えてくれる。


(なるほど)


 秘密主義な眼帯だとは思っていたが、そういう意味でのデザインでもあったのか。


「分かった。じゃあ『躯』は、すぐに回収しよう」

「え、ええ。そうしていただけると助かります」

「でも、少し残念だ」

「え?」

「名前は仕方がないにしても、顔くらいは見せて欲しかった」

「な──」


 頬に手を添え、わずかに露出している口元や顎周りの輪郭を撫ぜる。

 滑らかで柔らかい。

 素顔は絶対に美人だろうし、今だって眼帯を外してみたい欲求に駆られている。

 秘紋は狼狽えていた。


「な、我が君、なにを……!」

「俺が望めば、アンタはきっと顔を見せてくれる。けど、なんだかそれは無理強いみたいだよな」

「……ぁ、っ!?」


 唇に触れると、哀れなほどビクリと震える。

 名残惜しいが、これ以上は控えよう。

 手を離し、赤らんだ女の肌に別れを告げる。


「いつか、アンタの方から見せてもいいって時が来たら、そうしてくれ」

「っ、は、はい……」


 ドギマギといった様子で、女は頷く。

 十年分の飢えは、やや刺激が強すぎたかもしれない。

 俺も反省しながら、努めて意識を切り戻した。


「具体的な場所は後でいい。これからは好きな時にこうやって話ができる。そうだよな?」

「……っ、はい。必要とあらば、夜毎に夢の中で……」

「なら、詳細は追って詰めよう。今はいったん、もう一個の質問に答えてくれ」


 秩序律を狂わす悪しきモノどもとは、如何なる連中なのか?

 声が低くなるのは、自分でも気づいた。

 秘紋もまた、そんなこちらの精神の変調に気がつき、深呼吸して雰囲気を作り替える。


「──我が王、我が今生の君。答えはもう、ご存知のはずです」

「それでも、教えてくれ」

「……分かりました。すべてはエリヌッナデルク──古代四大を滅ぼした大戦が、何ゆえに始まったのかに端を発しています」


 世界が秩序律と混沌渦の勢力に別れて争い合った時代。


「壊れた星の紀の歪んだ律を、多種族協和によって修復に導こうとしたモノたちがいました。

 一方で、律が修復されれば居場所を失い、存在も保てぬと危惧したモノたち──多くは魔物ですが、彼らはさらに世界に矛盾をもたらそうと、悲劇や絶望を積み重ねました」


 死んでいるのに生きているモノ。

 生きているのに終わっているモノ。

 死霊や英雄現象。

 人から転じ、魔へ堕落した精神。

 矛盾した世界だからこそ、この世に新たに現れ出でた存在。


「──すなわち、北方大陸グランシャリオにおいて筆頭たる名は

「……!」

「キング・セプテントリアが悔恨し、討滅を果たせなかったコトを死してなお慙愧した大悪魔こそ、私にとっても因縁の敵なのです。そして──」


 魔力喰らいの黒王秘紋という呪いを、今は亡きメラネルガリア王、ネグロ・アダマスが何のために息子に刻み込んだのか。

 答えは十年前に出ている。


「ッ」

「月の瞳と鉄鎖流狼の共謀により、恐るべき闇の公子は本来であれば一千年の未来さきに復活するところを、大いにその予定を早めました──使われたのはリンデンに封じられていた私ではない尼僧の遺体です」

 

 彼女の無念は、想像するだけで身が張り裂けそうになります。

 世界神の巫女は、明らかな怒りを湛えながら言った。


「ゆえにどうか、お願い申し上げます。秩序律を狂わす悪しきモノども──とりわけ復活した鯨飲濁流は、必ずや秘文字私たちの悪用を目論むでしょう。いえ、すでに目論むどころか動き出しているはずです」


 だから、助けてください。

 守ってください。

 秘紋は深く、深く頭を下げる。


「今や月の瞳という前例は現れました。敵のなかには私たちの墓を暴き、封印を破り、悪しき願いの叶え方を識るモノが必ず潜んでいます」

「でも、いいのか? 俺はベアトリクスもケイティナも愛してる。秩序律を狂わす存在を敵と見なすなら、俺だって──」

「いいえ! それは違います! 断じて違います!」


 叫ぶような否定に、一瞬だが気圧された。

 秘紋は身を震わして、眼帯の内側から涙を流していた。


「な、なんで泣くんだ……」

「だって、貴方の愛が間違いなはずはありません」

「っ」

「彼女たちはたしかに矛盾の代表格でした。魔物のなかでも死に生きるモノは、壊れた星の紀の歪んだ律が表す最たる破綻の例です」

「なら」

「ですが! たとえ歪んでいても、間違っているように思えても、律は律なのです!」


 完全な元通りになどならない。

 世界は変化した。

 変化した状態で新生した。

 地上を退去した神々が、何ゆえに〝現在いまの世界〟を作り上げたのか。

 変わらざるを得なかった流れの向きを、どちらか一方だけに傾けさせないためにだ。


「私が申し上げているのは、今あるバランスを大きく崩そうとする行いこそが誤りだというコト」

「……じゃあ、エリヌッナデルクは秩序律も混沌渦も、どっちの勢力も間違ってたって云うのか?」

「……結果的には。住みやすさと生きやすさを求めて秩序と混沌のどちらを望むのか。一方を排斥しようと動けば、もう一方から反発が生じるのは自明の理です」


 それに、そもそも──


「完璧な秩序も、完璧な混沌も、この〈渾天儀世界〉にはありません」

「え?」

「〈崩落の轟〉が起こる以前にも、世界にはそれぞれ秩序と混沌が同居していました」


 秩序しか無い世界。

 混沌しか無い世界。

 仮にそんなものがあったとして、それでは秩序と混沌という言葉にどれほどの意味が?

 どちらか片方しか無い世界では、バランスの概念が生まれない。

 中間が無ければ、正邪は問われない。


「ですので、貴方が彼女たちを愛する気持ちに間違いはありません。魔物を愛しているからといって、ご自身を鯨飲濁流と同列視する必要はありません……!」


 アレクサンドロ・シルヴァンの言葉を覚えていますか? と。

 俺のこれまでを、文字通り全て識っている唯一の女が、間を溜めて言う。


「貴方は〝今を生きる人間〟です」

「っ」

壮麗大地テラ・メエリタではご自身でも、吹っ切っておられたではありませんか」

「──俺は俺……?」

「そうです」


 ならば、胸を張って境界線上を歩きましょう。

 夜と昼の狭間にある青色の空の下で、自信を持って生きていきましょう。


「貴方の旅路が、貴方の道行きが、悪であるはずはないのですから」


 秘紋は立ち上がり、ギュッと俺を抱き締めた。

 温かな抱擁が、思わず涙を流させた。


「私が力及ばぬために、これまでたくさんのご不便をおかけしてしまいましたね? 長い間あてどもない暗闇の中を、ずいぶん独りで頑張らせてしまいました」

「──別にいいさ。知ってるだろ? 俺はそういうのには慣れてるんだ」

「慣れていても、心に降り積もるものはあります。ごめんなさい。貴方は苦しくても、辛い時ほど空元気で平気なフリをしてしまうのに、私はそこに甘えてしまった」


 よしよし、と。

 背中を優しく叩く女の手。

 やめて欲しい。


(俺の弱点を容赦なく突くのは……)


 男っていうのは自分の弱さなんて、出来れば一生隠しておきたい生き物なのに。

 特に女の前では、いつだって強い姿を見せたいものなのに。


「生憎、私たちは運命共同体ですから。隠しごとはできませんよ?」

「……ったく。思わぬデメリットだ」

「メリットの方が多いんですから、許してください」


 逆らえない優しさに包まれる。

 ホント、勘弁して欲しい。

 こんな単純なコトで、俺はアッサリ報われた気になってしまう。


「……」

「……」


 仕方がないので、しばらくそうして為されるがまま、体を預けるしかなかった。

 穏やかな涼風が、花の微香を間近に感じさせる。

 不意に、秘紋が詠を紡いだ。


「夜陰に蝕まれる黄昏、幽玄透徹に空を塞ぐ黒、境界の瞳は誰時たれどきを覗く──」

「どうしたんだ、急に?」

「これは、私という〝神に等しきモノ〟から、貴方という〝存在の王〟へ王権神授を表すことばです」


 黒王の秘紋。

 この世のありとあらゆる存在に対し、王が簒奪の許しを与えられる規格外の特権。

 奪い取った霊的真髄エッセンティアを、自分の物として使うチカラ。

 名は王権神授ドミナンス


「現在、貴方にはニドアの林の妖木と魔女が取り込まれていますね」

「あ、ああ……」

「ですが、貴方も薄らとは分かっていたかもしれませんが、前者は生物としての規格がまったく異なるモノ。後者はそもそも死霊の群体。本質を一度に理解しようとすれば、脳が五千年以上は焼き切れます」


 


「これまでは、私の方で制限をかけさせていただいておりました」

「せ──制限? どういうコトだ?」

「貴方のなかで磨かれる王の器が、充分に育つのを待っていたのです」


 妖木に関しては、樹界人ドルイディアンとの出会いもあり独力で理解に至った。

 まさに素晴らしかった。

 けれど、魔女の方は未だ深淵に届かず。


「無理もありません。貴方は夜を視通し死者を浮かび上がらせる目を持っていても、死者そのものではない。死を経験していても、真にその本質を理解するには在り方が異なりすぎていましたから」


 黎明の穹。

 夜明け前の群青は、全き闇にしてみれば眩しすぎる。


「然れども、然れどもです。遥か東の地、貴方はついに己が運命の始まりと邂逅した」

「エンディアのコトか……?」

「ええ。死界の王にして闇夜鴉の幽冥界。一度ならず二度、三度と鴉の世界に入り、死とは何なのか体感したはずです」


 つまり、『死』を理解するのに必要な充分な下地を得た。


「──いえ。『死』を定義するだけの大器を備えたと言えます」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。ってコトは……」

「貴方が『捕食の風』と呼ぶ簒奪のチカラも合わせて、魔女の深淵を解放しましょう」


 白嶺の魔女が生まれたキッカケを覚えているだろうか?

 死霊の群体にして大怨霊だったモノが、なぜ魔女に変生したのか?


 アレクサンドロは言っていた。

 依代になったのは深層貴種ハイ・ダークの頭蓋骨だと。


 そして、魔女という魔物が一般に、どのように発生するのか。

 各地の文献や書物、刻印騎士団の研究ではこう語られている。

 第八の有角神によって、ひとつの呪文を練り込まれたのが原因だと。


 ──よって。


「蓋を開ければ、それは世界を汚す毒物にしかなりえません」


 魔物たちの故郷である〈第八円環帯ハーディーンス・リングベルト〉でさえも、それは絶大な畏怖と畏敬を勝ち取っていたモノ。


「私も手を焼きましたが、今の貴方になら託せます……」


 この世で一番はじめに、第八の神によって唱えられた呪文の原初オリジン

 どんな呪文にも、最もはじめに唱えられた〝一番目〟というのが存在している。

 この場にもしも第八の原棲魔がいれば、裂けるほどに口角を釣り上げ叫んだに違いない。


 ──この世の万物万象は、誰が名を決めたと?

 ──呪文は誰が、何のために創ったものだと?

 ──はじめに言葉があった! 神は言葉だった!


 第八世界の住人は、魔法の神マギア・デウスと呼ぶ。

 魔法は魔のモノどもの法理。

 呪文は魔のモノどもに法理を与えた神のことば。

 第八の天地では呪文と神は同一視され、信仰されている。


「白嶺の魔女に贈られたのは──」


 “モルス


 あるいは、


 “レトゥム


「マギア・デウス・モルス・レトゥム──定義するのは貴方です」

「……!」

「そして、存在の王よ。この世のありとあらゆる色を束ね、重ね、いずれは黒く染まる王よ。貴方が真に王権の絶対性を望むならば、黒色の絶対王権アートルム・レガリアを示す詞はすでに詠われています」


 ──門よ開け。扉よ開け。

 ──地とそこにあるもの、とこしえに輝ける天上の虚ろ。


第五元素たる霊的真髄クィンタ・エッセンティアを守る城門は開かれたり。天と地にあまねく諸力は御身の前で平伏します」


 自覚はここに。

 捕食の風。

 ベアトリクスの隠し名。

 二つのチカラが解禁された。

 ずっしりと肩に伸し掛る重さがあった。

 重さは次第に馴染んでいき、脳がアツくなった気がしたが徐々に熱が引いていく。


「悪しきモノどもとの戦いに、存分に役立てていただければと思います」

「……ああ。ありがたく、使わせてもらう」


 力は得た。

 さらに強くなるための新たな力も。

 運命との再会を叶え、行くべき道は確定し。

 必要な武器は手に入り、ここからは迷わない。

 今を生きる人間として。

 自分らしく誇りを持って。

 独りぼっちで悩んだり迷ったりせず、頼りになる仲間と共に問題と向き合う。


(我慢は体によくないしな)


 それに、今日からはいつでも運命が一緒だ。

 いや、今日からってのはおかしいか。

 実際にはこれまでも、ちゃんとした意思疎通が出来なかっただけで一緒にはいた。

 それでも、


「──改めて、よろしく頼む」

「はい。こちらこそ、永遠とわにお願いします」


 こうして抱き締め合ったり、面と向かい合って言葉を交わせるのはやっぱり比べ物にならない。

 頑張った甲斐があった。

 心底、そう思った。





────────────

tips:魔法の神


 マギア・デウス。

 〈第八円環帯〉の神ではなく、〈第八円環帯〉で創られた魔法の呪文の一番目を意味する。

 が、神とオリジンは同一視され、やがて習合された。

 魔法の神──魔神と、第八由来の魔物たちは畏敬する。

 一方で、〈崩落の轟〉以降に発生した魔物は存在自体知らないモノも多い。

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