#144「闇の公子の復活」
ああ──理解した。
俺はふと、ストンと胸の中に落ちるものを感じた。
圧倒的な力で、ただ敵を捩じ伏せる。
気分は最悪で、何も面白くなどないし不快なだけ。
こんなコトの、何が楽しくて喜ばしいのか。
地竜に消し飛ばされた半身が、魔女化によって修復されたのをもどかしく思いながら。
目の前のクソ野郎に、冷えた殺意と軽蔑の感情。
それと、後悔からくる自己嫌悪に、ジリジリと胸の内を責められながら、それでも応報だけはと。
奪われた事実に怒りが溢れ、そんな自分をどこか、数歩離れたところから俯瞰している。
まるで感情と理性が
頭の中が真っ白すぎて、暴力に身を任せている自分を自分と思えない。
鉄鎖流狼の脅威を見誤り、即座に魔女化しなかった判断ミス。
ああ、すべて俺が悪いのだ。
リンデンには仲間がいる。
彼らの実力は確かなもので、頼る選択肢が今回はあって。
大魔との戦いは、これが初めてだったけれど。
途中までは皆で抗えてしまった。
でも、地竜と獣神が来た時点で、俺はこの八年間を捨てておくべきだったのだ。
あれが最後の最悪を回避できたタイミングだった。
躊躇。逡巡。その空白に聞こえてしまった幼子の声。
避難が終わっていないリンデンの民。
逃げ遅れ、「ママ」と母を求めて泣き叫ぶ子ども。
顔を向ければ、まだ生きているあの子を助けてくれと、死してなお助けを求める死者の懇願。
都市を破壊し、家屋を倒壊させる地竜。
振り落ちる瓦礫と、暴虐の災禍に呑まれかけた小さき影。
俺は後先を考えられなかった。
そんなこちらに、アルマンドさんは「任せろ」と言ってくれた。
迫り来る竜咆哮。
子どもたちの盾となって、咄嗟に身を躍らせたが……
(──何もかも、何もかも……)
ああ。俺が最初に、すべてを捨てておけば良かったのだ。
そう思った瞬間、「ああ、これがそういうコトか」とも悟った。
〝食い荒らされる〟
大事に守ってきたものを。
本来あったはずの
同じ土地に根付き、同じ水の恵を得て、同じ空の下で明日を信じていた。
その多くは、言葉を交わしたワケでもない。
だけど、彼らは皆んな、この都市の中でひとつの共同体だった。
──守っている自覚があった。
──頼りにされている誇りがあった。
(自分勝手な思い込みかもしれなくとも、俺は八年もリンデンで暮らしていたんだ)
友人と呼べる者。
仲間と呼べる者。
顔見知り程度に過ぎない、名も知らぬ誰かでさえも。
日常の隙間に好ましく映る、小さな燭台の揺らめきのような幸福があり、あたたかな喜びは、胸の内へ幾度も降り積もった。
自分がそれを、ほんの少しでも手助けできているのなら。
誇りを抱くのには足りていた。
美しいものは、たしかにそこにあった。
──コイツは全部、めちゃくちゃにした。
許せるはずがなかった。
腹の底から、ふつふつと灼熱が湧いて、火花が目蓋を爆ぜ狂って。
堪え切れない激情。
耐え難い痛み。
ああ、いまならば理解可能だ。
ニドアの妖木が、永きに亘る生涯で、何を心にあの
意地汚い獣に食い荒らされ、仲間たちが数を減らす慟哭と義憤。
「“
途中、地竜や獣神が哀れにも邪魔をしてきたが、そちらはユトラの二柱で払い除け、
「助けて、助けてよォ!
バキバキと鋼鉄を縛り砕きながら、自分勝手にも助けを求めるケダモノに、最期の刻を与えてやろうとした。
あとわずかで、息の根を止めてやれる。
報いを与えてやれる。
躊躇う理由は何処にもなく、殺意は実際、鉄鎖流狼の首を鷲掴みにする直前まで行っていて、
──
「……あ?」
薄皮一枚の距離で、手首を掴まれた。
動かせない。
完全に魔女化しているにもかかわらず。
ベアトリクスの怪力を以ってしても、ビクリともしない。
青白い肌の骨ばった手が、とんでもない握力で俺の右腕を止めている。
血の雨。
降って止む。
生臭い赤色の水たまりが、足元でぴちょんぴちょん波紋を作った。
「……」
「……」
「……」
「“
血の海から、見たこともない大型の怪物が飛び出し、俺を食おうとした。
凍らせた。
「──ハ! ハハ! ハハハ! ハハハハハ!」
拮抗状態は続いている。
異様な姿をしたヤツだった。
骨と皮だけの、ひ弱な見た目。
薄汚い襤褸を身につけていて、至るところに鞭で打たれたような古傷の痕がある。
髪はすべて白髪だ。
ただ量は多くてボサボサ。
病的で胡乱な顔つきから、尋常な精神状態ではないと一目で分かる。
頭のおかしいヤツが、自然と周囲から浮くように、青年には病んだ雰囲気が滲んでいた。
赤色の目も、異様に注意を引きつける。
真っ赤に染まったガラス玉。
ほとんど白目と黒目の差が無くなっていて、海外ドラマの悪魔の演出のようだ。
体格は薄いが、不思議なコトに骨格には恵まれていた。
身長は目測二メートル。
なのに、あまりにも不健康なガリガリだから、腕と足が異様に長く見えて、アンバランスな体つきだった。
口元からは、鋭い犬歯が覗いている。
なるほど。
(コイツが、
心当たりはあった。
自分のものではない魂の記録が、警告の鐘を鳴らしていた。
青年が口を開く。
「あまり、俺のかわいい犬コロを、イジメないでくれないか?」
「イジメてなんかない。ただ殺そうとしてるだけだ」
「ヒヒヒヒヒヒヒヒッ! 驚いた。会話ができるのかよ。白嶺であって白嶺でない。不思議だ。俺が眠っているあいだに、世界はまたもオカシクなったらしい」
「ゲ、ゲイイン様……? ホントに、ゲイイン様なのですか?」
「黙っていろテッサ。俺はいま、考えあぐねている」
ゲイイン、と呼ばれた青年は、クルクルと頭を回し始め、かと思うとブチリと鉄鎖流狼の耳を引きちぎった。
「キャウンッ!」
肉と毛皮の繊維が断裂する音。
そしてパクリ、青年はムシャムシャとそれを食べ始める。
鉄鎖流狼は歓喜の顔で涙を流し、文句も言わない。
どちらもイカレている。
なのに、俺は次第に、ゾワゾワと悪寒が駆け上がってくるのを、気の所為ではないと感じていた。
服がじわじわ湿っていき、背筋にぴったりと汗で張り付く。
理屈は分からないが、青年からの圧力が増した。
たった今、気配が濃密になった。
存在感が格段に膨らみ、右腕がミシミシと潰されかかっている。否、
(チク、ショウ……!)
察した。
悟った。
負ける。
向こうもそれを直観した。
「クソが」
「ヒィヒャッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハーーッ!!」
青年の蹴りが、鳩尾を的確に捉えて、俺を宙へ弾き飛ばす。
右腕は掴まれたまま。
つまり、どういうコトかと説明すれば、認めたくはないが引きちぎられた信じられない。
だが受け入れなければダメだ。
ベアトリクスのチカラがありながら、俺はいまこの瞬間、初めて〝格上〟と出会ってしまったのだと。
「なぁ、オマエはダレだ?」
「ッ、“
「“
耳元で囁かれた
困難呪文。
高次の階梯。
魔女化していなければ、恐らく無効化された事実も分からない。
だが、だから何だ。
「ふざけるなよ、オマエら……!」
「んー?」
空高く蹴飛ばされたコトで、リンデンの惨状が改めてよく分かった。
これだけの虐殺。
これだけの災禍。
これだけの罪業。
雪がなければ、俺の魂は軋んで元通りには戻れない。
たとえ相手が、
「──
「知っているのか? 俺はオマエを、知らないんだがなぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
血に染まった城下町が、とぷん、と赤い液体に沈んで海となる。
青年は大口を空けて、ボコボコと皮膚から泡を吐いて変身した。
先ほど見た海洋生物らしき怪物だった。
クジラ、サメ、シャチ、イッカク。
輪郭は明らかに海の獣で、なのにセイウチなどの鰭脚類のような身体的特徴も併せ持ち。
たくさんの
まるでメガロドン。
いいや、リヴィアタン・メルビレイか。
とにもかくにも、古今の海獣要素をすべて継ぎ足して、新種のキメラを作ったような外見だった。
血の波濤を足にして、生粋の化け物がこちらへ飛び掛る。
「右腕だけじゃ、物足りないッ!」
「──くっ!」
躱せたのは間一髪。
デカすぎるあまりノロマに錯覚するが、津波のように速くて神経がヒリついた。
鯨飲濁流。
正体は、吸血鬼。
飢えて死んだ人間が、死後、生前の飢えを満たそうとし、血を啜る鬼となった魔物。
どれぐらいの大食漢で、どれぐらいの悪食かは、まさにご覧の通り。
吸血鬼は人狼と同様、変身能力を持つ魔物だ。
ただし、その変身は、〝血を吸ったすべての生き物〟を対象とする。
鯨飲濁流とは、つまりは屍山血河。
──鯨のように飲んだ血潮の濁流。
そして、
鯨飲濁流は、北のエリヌッナデルクを征した勝利者として、強く深くこの星に刻まれているんだろう。
同格だったのは、恐らくは古代までの話。
二千年以上、行方不明だった理由はまったく知らないが、
(今はもう……!)
コイツの方が、強い──!
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tips:吸血鬼
人から転じた魔、アンデッド。
餓死者の成れの果て。
非常にポピュラー。
陽の光、流れる清水、白樺の杭。
弱点は広く知られている。
しかし、怪力、変身、潜影など。
恐るべき能力も多数知られていて、討伐が困難なコトも有名。
特に北方大陸では、吸血鬼への恐れはとても強く、人々を震え上がらせる。
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